裁判員制度

前々から数年先に導入されることになっているこの「裁判員制度」なるものに違和感を持っていた。
その違和感がなんなのか、養老センセイの『死の壁』を読んでちょっと分かったような気がした。
今日はそのことについて少し、書いてみる。
 
死の壁』にエリートについての記述がある。
エリートとは、否が応でも、常に加害者になりうる、ならざるを得ない立場であり、
それゆえに精神的な重荷が付きまとうことになる。
が、現在ではエリートは消滅してしまった、と。
 
憲法の78条から80条にかけて、裁判官の身分保障についての記述がある。
しっかりと身分は保証され、給料を下げられることはない、とすら憲法に書いてある。
国の最高法規で給料保障がされているのは、裁判官だけである。
国会議員でも総理大臣でも、憲法で給料まで保障されてはない。
民主主義の制度の中で、紛争を解決する裁判官は制度維持の要だとされているから、このような保障になるわけだ。
つまり、裁判官というのはエリート中のエリートなのである。
 
裁判員制度というのはエリートの責務を一般の庶民に転嫁しようとするものだ。
判決を下すなんてのは、普通の神経の持ち主なら、だれも嫌なものだ。
しかし、エリートたる裁判官にはその責務がある。そのために国の最高法規で給料保障までされている。
ずるい、と思うのは私だけだろうか。
 
裁判員制度を導入するなら、行政訴訟に限ったものにしてもらいたいと私は思う。
特に公務員の罷免について。
公務員もエリートであるから、行政訴訟はエリートがエリートを裁くという形になる。
しかし、エリートを裁くのは非エリートでなければならないのではなかろうか。
近年の行政のあり方とそれにまつわる訴訟についてのニュースを見聞きするにつけて、そう考えるのである。死の壁 (新潮新書)