歩荷

先日の「持ち」で、久しぶりに味わうことになった感覚がある。
重荷を背負って山道を登っていくときの感覚。
こんなものに特別の感覚なんてあるのか、シンドイだけじゃないのかって、そうなんですけど。
 
昔、とある山小屋で働いていたことがある。
登山する人に山で宿と食事を提供する、山小屋である。
山小屋の荷揚げの多くはヘリコプターを使い、私の働いていた小屋でもそのようになっていったのだが、
働き始めた頃はまだヘリで荷揚げするほど客も来ず、荷揚げは主に人力で行っていた。
 
山登りの世界では、荷物を背負って運ぶことを「歩荷」と書いて「ぼっか」と呼ぶ。
その歩荷をよくやった。
背負った荷の重量は40〜50キロ、時にはそれ以上、
標高差にして1400m、時間にして5〜8時間、この時間は荷の重さと体調で違った。
歩荷のときは、朝食を食べたら車の入る場所まで駆け下りていき、
それから荷造りをして、えっちらおっちら山道を登っていくのである。
 
これだけの荷を背負えば当然、体にはかなりの負荷がかかる。
汗は流れ、動悸は速くなり、息は切れる。肩に荷の重さが食い込む。
下腹部、丹田のあたりに力をこめ、尻の穴から体を持ち上げていくような感覚、
こういう感じで歩けばよい、というのをだんだんと憶えていった。
 
ところが腹が減ってくると、丹田に力が入らなくなる。スカスカと抜けてしまうような感覚になる。
これをシャリバテと称したのだが、こうなるとつらい。
が対処法は簡単、飯を食えばよいのである。
不思議なもので、おにぎりを詰め込むとたちまち収まった。
登り始める前にはドンブリ飯を最低でも2杯は詰め込んでいったものだが、
他にもでっかいおにぎりを3つ4つ、必ず弁当に持っていった。
 
久しぶりに思い出したいう感覚は、丹田に力を込めるというのではない。
「持ち」をしたとき、このような重荷を背負ったのは数年ぶりであったにもかかわらず、
特に意識するまでもなく体はそのように動いていた。
昔取ったなんとやら、というものだろうが、私が言いたいのはそれではない。
 
重荷を背負って歩いていると、感覚は体の内側に向かっていく。
俗に言う、歯を食いしばって、というような感じだろうか。
歩荷の途中、当然休憩をするわけだが、そんなときはこれまた当然、荷を降ろす。
汗を拭い、動悸が収まり息が整ってくるにつれ、これまで内向きだった感覚が徐々に外へ開放されていく。
すると周囲――木々の生い茂る森――の雰囲気が、
まるでオーディオのボリュームを上げたかのように、わっと押し寄せてくるのだった。
 
鳥の鳴き声。木の枝が風にそよぐ音。葉の色彩。足元に蟻が這っていることに改めて気がついたりとか。
それに、なんといったらよいか、森の中の独特の雰囲気が感じられるようになる。
これは、自分の体の中の水と森の中の水が共鳴する、とでも表現すればよいだろうか。
これはいままで感覚が内向きだったので、なおさら強く感じられるものだったのだろう。
 
ときにはなぜだが、このような感覚が感じ取れないときがあった。
こんなときは体調の良くないときである。
こういうときの歩荷は、ほんとうにつらいものだった。