あるとき、森の中でふと思ったことがある。
「お金」はなぜ「金」なのだろうか、と。
通貨としての「金(かね)になぜ「金(きん)」という字をあてたのか。
 
こんなことは、どこかで誰かが指摘しているに違いない。
私は愚かな樵であるから、そういった記述に巡り合ったことがないだけであろうが、
愚樵空論であるから書いてみる。
 
私がそのとき思ったのは、金(きん)は変わらないからではないか、お金(かね)は変わっては困るからではないか、と。
そう考えたのは緑溢れる森の中、移ろいゆくものたちに囲まれた中でである。
 
お金・通貨は当然のことながら人の考え出した概念である。
養老センセイの『バカの壁』にそう書いてあったし、また、プラトンに言わせればイデアか。
お金は物と物との交換を効率よく行うために考え出された、というのが定説だと思うのだが、
確かに決まったもの・変化しないものを媒介にして、つまり一定の尺度を使って、交換を行うと便利だろう。
通貨は何も金(きん)である必要はないし、実際に米や貝殻や銀なんかも使われたのだろうけど、
金(きん)が最もよく使われ、通貨にお金という字をあてたのは、
それがもっとも変化しないものだからではなかったろうか。
 
人はそのお金を基本として、経済というシステムを組み上げていった。
しかし、自然は移ろいゆくものであり、それが自然のルールである。
変わらないものを前提にして組み上げたシステムは、
変わることがルールであるものとは根本で相容れないものではなかろうか。
それは自然のルールとはかけ離れた、人間の勝手な都合にでしかないのではなかろうか。