畑と相談。

畑と相談、というのは水上勉の『土を喰らう日々』のなかにでてくる言い回しである。
妻はこの言葉がお気に入りのようで、何度もこの本を読み返していたりする。
 
こちらに移って初めての冬、我々は早速にも畑と大いに相談しなければならない事態に陥っていた。
 
森林組合の給料の支払日は毎月10日だったのだが、年末に限ってはその年内に支払うよう取り計らってくれていた。
正月は何かと物入りだろうという配慮からだと思うが、実はさほどありがたいものでもなかった。
年末に給料をいただくのはいいのだが、次の給料が2月10日になってしまう。
しかも1月は正月休みが長く、出勤日数も少ないので当然支給額も少ない。
正月を越したはいいが冬を越すのが大変、ということになってしまうのである。
 
そんなわけで勢い、畑に相談ということになったのであるが、そうはいってもまだ始めたばかりの畑である。
われわれの過大な相談に応じられるわけもなかったのだが、
妻は毎日、畑に出て何かと手入れをしては、早く大きくなれ、と念じていたそうな。
普通なら捨ててしまうようなところも、これも食べられるよね、と大事に収穫してありがたく頂いていた。
そして、そんな様子を見かねた近所の人たちから野菜のおすそ分けを頂くように頂くようになり、
俄然食卓が豊かになったのだった。
 
侘しい話なのだが、いまでも妻はその時の話をよくする。
その頃の私はといえば、妻のそんな思いは露知らず、今日はだれだれさんちのお野菜、とか言って出されるものを
美味いねぇ、ありがたいねぇ、とのほほんと喰らっていたのだが。
しかし侘しいとは言いつつも、妻にとってはどこか充実したものが会ったのだろう。
今では妻も勤めに出るようになってしまい、あまり畑にでる時間がなくなってしまったのだが、
それでも暇を見つけては畑でなにやらやっている。
またゆっくり畑をしたい、と毎日のように言うのである。
 
確かに妻も勤めるようになって、生活はかなり楽になった。
妻が畑に出る時間が、勤めに出ることによってお金に換えることができたなら、そちらの方がずっと効率が良い。
畑の収穫物は食べることが出来るが、お金がさえあれば買うことが出来る。
そして買うことが出来るのは、食べるものだけではない。
 
けれど妻にとっては釈然としないものが残っているみたいだ。
その思いは私にも良くわかる。
お金を手に入れる代わりに、お金には換算できない何か、を失ってしまった。
それを求めて田舎に移り住んできたのに。
 
だが、現実の生活の前に「カネの壁」は高い。