「美しい」と「愛」との関係

ぷらさんの「doll and peace」最新の記事のタイトルを見て、ドキッとした。
「愛」と「美しい」の連発にはご用心!! 
私なんか、ふたつとも連発しまくりではないか。 「愚樵空論」には用心するほどのものは何にもないが(笑)。
でも確かに、このふたつの言葉の意味を素直に受け取ると、とんでもないことになってしまうと状況になりつつある。残念なことだ。
私は「愛」も「美しい」も大好きだ。連発するのはさすがに面映いけれど、でも、ボキャブラリーが足らないせいか、他に使える言葉がなくて、ついつい使う。これからは注意しなければ。
 
しかし、このエントリーでは連発する。
そんでもって、「愛」と「美しい」の関係を考えてみたい。
 
愛は美しいものを醜くする。
愛は醜いものを美しくする。
こういうことは、言えないだろうか。

美しい国」を愛せ、という醜さ。
このケースだと、「美しい」のほかに「正義」だとか「伝統」なる言葉が用いられたりする。
確かに日本は美しい国だ。また男系の系譜で長らく続く天皇制の伝統も、これまた貴重なものであるには間違いない。けれど、それを「愛する」と始めると...。

対して、醜いものを愛する美しさ。
NHK朝ドラの『純情きらり』がいいらしい。私はあんまり見てないのだが。「橋本裕の日記」「純情キラリ」の美学のなかで描写されている場面など、醜いものを愛する美しさの見事な例だと思う。

「だからいいんでねえか。おなごはな、でこぼこのあるほうがいいんだ。尖ったところや、足りねえところがいっぱいあるほうがな」


「愛」を、「自己」と、自己を取り巻く「世界」との関係性と定義するとしよう(肯定的な場合を「愛」、否定的なら「憎悪」としてもよい)。
「愛」が成立するには「自己」と「世界」のふたつの要素が必要だ。そしてまた、「愛」と呼ばれる心の作用にも2種類あって、ひとつは「世界」の中で「自己」の居場所を見つけようとする働き、もうひとつは「世界」を「自己」の中に受容しようとする働きである。


完全なもの、美しいものを自己の居場所にしようとする愛は、醜い。
いや、本当に完全で美しいなら、まだよい。そうでないものを、ただ「美しい」と言い立てる。それで自己の正当化を図ろうとする。
これではかえって醜い「自己」が露になってしまう。

不完全なもの、醜いものを受容しようとする愛は、美しい。
私たちが暮らすこの世の中が、争いが絶えず、不完全で醜いものであるとしても、それを受容した上で、少しでも美しく完全な方向へ改善していこうという意思と営為。美しく完全なるものとは、すなわち「平和」。「平和」を求める心こそが「愛」(ああ、恥ずかしいセリフ!)
この「愛」が国に向けば「愛国」、社会の全ての人に向けば「愛人」。
私たち(ここは「私」ではなく、「私たち」としたい)は、「平和」を追い求めていきたい。