あの日のことは、よく憶えています

そうか、もう5年も経ったのか。
 
いえ、これは私の個人的なこと。
5年前の今日、例の衝撃的なニュースをTVで見たときの私自身の状況。
 
今日はメディアでもブログでも、あの事件のことがいろいろ取り沙汰されるだろうし、私も先にちょこっとだけ書いたが、今はあの事件のことを書くよりも、どうせ書いたってろくなことは書けないのだし、自分自身のことを書きたい。もっとも、こちらもろくなことではない。
 
でも、書きたい理由がある。その理由をうまく書けないけど。
 
 
そのころ、私は静岡で暮らしていた。静岡県富士宮市。小さなアパートを借りて、そこである女性とふたりで暮らしていた。
部屋から出ると、目の前に富士山が聳え立っていて、富士山とは縁のない関西出身の私は見るたびにその大きさに驚いてばかりいた。不思議なことに地元の人は驚かないようだった。
 
その女性とは、山の中で知り合った。サラリーマンの生活に馴染めず、勤めていた会社を辞めて学生時代に入り浸っていた山に、再び入り浸るようになった。とある山小屋で一緒に働いたことがきっかけで、ふたりで暮らすようになった。
とにかく、ほとんど24時間365日一緒にいた。いや、それは過剰表現だけど、それくらい一緒にいた。まず、仕事が一緒。そのころもやっぱり私たちは山小屋で働いていて、その少し前から山小屋を何軒も管理している会社から小さな小屋をふたりで任されるようになっていた。忙しい時期にはアルバイト(私だってアルバイトだったのだが)ひとりふたり手伝いにきてくれるのだけど、それ以外の時期はふたりだけ。山のどまんなかにポツンとある小さな建物で、外部との通信手段は無線だけ。TVも地上波は受信できず衛星放送のみ、といったところ。そんなところで、年12ヶ月のうち、少なくとも1ヶ月はふたりだけで過ごしていた。
山小屋の仕事は年中あるわけではなくオフシーズンは富士宮にいたわけだが、ここでもほとんど一緒。ファミレスなんかでアルバイトをしたりしたが、勤務の時間は短かったし、それ以外、買い物をするにも何をするにも必ずふたりで出かけたので、今から思い返すに、とにかく一緒に居たという印象が強い。
 
そんな彼女に、私は3つの役割を求めた。
ひとつは、普通に女性としての役割。もうひとつは、特に任されていた山小屋に居るときには、仕事のパートナーとしての役割。そして3つ目が、母としての役割。
 
あの田嶋陽子あたりに言わせると、男とは皆そうしたもので、だからダメなのだということになるのだろうが、私の場合、そのダメさ加減が並外れていた。自覚は十分にあった。自分の人格上の欠点だと認識していた。
その原因は私の子供の頃にあるのだろう。私が小学校に上がってすぐに両親が離婚して、私たち兄弟は二人は父親に引き取られた。母親は精神分裂症になってしまっていて、とても子供の養育などできないということだったのだろう。2人の子供は父親が養育することになり、その父親はすぐに再婚した。そしてすぐにまた弟が生まれた。私たち兄弟はその家庭の中で居場所がなかった。
 
人間を含めて成長過程の生き物というのは脆いもので、必要とされる時期に必要なものが与えられないと、十分に育たない。身体は栄養が不足すると育たないし、心は愛情が不足すると不健全な心になってしまう。
幸いなことに私は栄養は十分に与えられ、丈夫な身体を持つことができた。これには感謝。いや、ほんとうに感謝している。何をするにせよ、健康な身体が基本。
けれど、愛情の方は不足していた。(同母の)弟が私と同じような「症状」を示すので、これは間違いないと思う。この弟の妻と私の妻が会ったり電話した折などには、ふたりとも同じだといって話が盛り上がっている。あまり喜ばしい「盛り上がり」ではないと思うけど、彼女らにしてみればそうやって盛り上がることがガス抜きになっているのだろう。
 
私自身はその女性と会う以前から、本で知識を得たりして自分の欠点について多少なりとも自覚はしていた。ゆえに女性を意識的に避けていた。逃げていた。自信がなかった。
成り行きでその女性と暮らし始め、彼女に心を許していくほどに「症状」が現われ始めた。彼女に母親のように依存していくという「症状」。あれほどに酷く表れるとは思っていなかった。頭で、知識で理解しても、克服できるものではなかった。
そしてそれは彼女の方も同じだった。彼女には当然私の幼少の頃の話はしていたし、頭では理解していたろうが、だからといって受け入れられるものではなかった。彼女は私から離れたいと望むようになった。
 
山小屋の仕事は、夏が一番忙しい。また自然環境の厳しさもあって、体力的にも辛い。5年前の夏、彼女は心身ともに疲れ果てて、実家に帰っていった。
私の方も同様だった。他に手段がなく、両親を恃んだ。両親に助けを求めたときのふたりの反応は今でもよく憶えている。私の反感を理解しているであろうし責任も自覚しているであろう父親は、一瞬うれしそうな顔色を見せたが、継母の方はそっぽを向いた。事実、私は両親の元には二晩しか居られなかった。
 
一旦両親の居る大阪に戻ったのだが、部屋を整理するために再び富士宮にやってきたのが9月11日だった。必要な家財道具を運ぶため大阪でレンタカーを借りてやってきた。彼女はまだ身体の具合が悪く、動けなかった。朝、大阪を出て夕刻に富士宮に到着、一人で部屋の道具を整理し、彼女の荷物は送るように荷造りしたりしながら、ひとりでなんとなく寂しいのでTVを賑わいに点けた。そのTVに映し出されたのが、9.11の事件だった。
 
WTCの建物から煙が立ち昇る映像を見て、最初は映画かと思った。そしたら煙がでていない建物の方に飛行機が突っ込んでいって、ますます映画かと思い、それが生の中継だと理解するまでしばらくかかった。そう理解しても特に驚きの感情も何も湧き上がってこなかったことを、憶えている。
 
 
あれから、もう、5年か。人間をやっていると紆余曲折、いろいろとあるものです。
 
そして、それからまた紆余曲折あって、その女性は今、私の妻として紀伊半島の真ん中で暮らしています。