報道者って何者?

毎度毎度のことながら、わたくし愚樵に「考えるヒント」を提供してくださる華氏451度luxmburg発のお嬢様ムル猫君のお話がとっても面白いのだけど、そちらについてはパス。理由はナイショ。
で、今回取り上げさせて頂くエントリーは、「「苦手」と「嫌い」について(&報道者というもの)」。「苦手」と「嫌い」の表現を使い分ける理由は華氏さんのご職業である「報道者」という立場にあるというところから出発して、「苦手」と「嫌い」の2つの言葉が華氏さんの内面でどういう位置にあるかを提示されていく。
華氏さんは言葉は難しく面白いと仰る。華氏さんの記事の読み手である私は、華氏さんの言葉を面白いと感じる。そう感じるのは、「言葉」と「華氏さん自身」との位置関係をキッチリと提示されるからだろう。位置関係がはっきりした「言葉」は、時として言葉が孕むことになる空虚さとは無縁である。「言葉」が華氏さんを通じて実感のあるものになっていく。
こういう文章を拝見すると、私も同様に「言葉」と自分自身との位置関係をはっきり提示したいという誘惑に駆られる。というのも、これも華氏さんの指摘の通り「ひとりひとりが持っている概念やイメージが微妙に(時には大幅に)違う」から。私の位置関係を提示して華氏さんとの違いを際立たせてみることは、さぞかし面白かろうと思う。
 
面白かろうと思うけれど、今日はそちらもパス。なぜなら本日のテーマは「報道者」だから。10日程前のH-Yamaguchi.net「新聞記者はえらい、という話」という記事があって、ここで紹介されている「報道者」と華氏さんが仰る「報道者」とは、その報道姿勢が180度違う。どっちが本当なの? もしくはどちらも本当なの? 素朴な疑問から出発。
 
華氏さんは、報道者を「黒衣(くろこ)」だという。「事実がすべてを物語る」という教育をされている、と。ところがH-Yamaguchi氏によると報道者は「アーティスト」となる。つまり報道者とは主張する者であり、事実とは報道者の主張を裏付ける材料、ということになる。
華氏さんはフリーのライターだと自己紹介されている。であるから、華氏さんの言う報道者とは、華氏さんご自身及び華氏さんの周りにおられる同業者の方々ということになるのだろう。「ルポライターの人達は、ある程度独り立ちできるようになると、すぐに評論家やエッセイストになってしまう。できれば生涯、“一介の報道者”でいて欲しい」という、ある雑誌の編集長のお話を紹介されておられるわけだから、現に「事実がすべてを物語る」という世界におられるのであろう。
一方、H-Yamaguchi氏は大学の先生。報道者の世界の方が書いた記事ではないのだが、内容は「某大手新聞社の現役役員の方」から聞いた話がもとになっている。こちらも記事を拝見する限りは信憑性は高そうだし、寄せられたコメントを見ても、H-Yamaguchi氏の記事が真実を突いていることを窺わせる。
2つの記事の前提に違いがあるとすれば、華氏さんの方は雑誌等の世界のお話のようであるのに対し、H-Yamaguchi氏の方は大手新聞社のお話。新聞社とそれ以外の報道の世界では、こうも報道に対する姿勢が違っているものなのだろうか?
 
当然のことながら、私は上の疑問に対する回答は持ち合わせていない。推測することはできるだろうし、面白かろうが、これはまたもやパス。それよりも、どちらが報道者にとって“自然な”姿勢かを考えてみたい。
報道される者(取材を受ける者)および報道を受ける者(読者)にとっては、どちらの姿勢のほうが適切なものかは考えるまでもない。「事実がすべてを物語る」という姿勢こそが好ましい。しかし報道者にとっては、実はこの姿勢はあまり“適切”なものではないようだ。新聞記者は言わずもがな、「事実がすべてを物語る」という姿勢の雑誌編集長も「評論家やエッセイストになってしまう」、つまりアーティストになってしまうという「事実」を指摘する。華氏さんですら「ブログでは勝手な言葉を吐き散らす。仕事で抑制かけてる反動かな」と白状されている。これらから、報道者にとって「事実がすべてを物語る」という姿勢は、“不自然な”姿勢であるのではないかと疑わざるをえない。
 
報道機関とは常にモラルを問われるところに位置する存在である。「アーティスト」たる新聞記者はそのモラルが疑われるし、その姿勢はH-Yamaguchi氏が疑問を呈するように「取材って本当に必要なのか?」と報道機関の存在意義を疑われてしまう結果を導く。我われがモラルを感じるのは断然「黒衣(くろこ)」の方である。
しかし、このモラルが実は報道者にとっては不自然な姿勢を強要することだとすれば、どうだろう? 不自然な姿勢を強要し、その姿勢を保持できないと非難するのは、果たして善いことなのか? 私はここに疑問を持つ。
もちろん、新聞記者はアーティストなのだと居直る輩を支持するというわけではない。そういう輩は問題外だ。問題なのは、不自然な姿勢に耐えているモラルある方々である。
 
モラルを問われるのは報道機関だけではない。報道機関以外の場所でもモラルとは不自然な姿勢なのかどうか、もう眠いのでこれ以上考察は進めない。だから仮定の話なのだけど、もしモラルが不自然な姿勢をキープするということだとしたら、そういった不自然なモラルがなければ正常に作用していかない社会制度には、そもそもからして無理があるということになる。そんなものが永く存続するということは、それこそ奇跡ようなものではあるまいか。

追記

当エントリーを受けて華氏さんが「報道者というもの――その姿勢とモラル(前編)」というエントリーを立ててくださいました。こちらを拝見すると、“「黒衣(くろこ)」は不自然”という結論は、正しいとは言えないのではないかと感じてしまいました。このことはまた別の機会に考えてみたいと思います。