「共謀罪阻止」をターニングポイントにしよう

やっぱり、ブログはいい!

共謀罪について、なにか書きたいと思っていた。もちろん、共謀罪創設には大反対。一本だけ『刑法に「国家反逆罪」を創設せよ』を書いたが、後が続かない。普段、訪問させてもらっているブログの多くが共謀罪に反対を叫んでいる。みなさん、スゴイ情報量、勉強量。そして情熱。その輪の端に加わりたいと思っていた。
皆さんの情熱に絆されて、報道機関や政治家の所にFAXやメールを送ってみたりと、できることをやってはいる。でも、それだけではちょっと悔しい。最近、自分も拙いながら「ブロガー」という意識を持つようになってきた。この『愚樵空論』というブログは立ち上げてたのは1年以上前だけれど、どのように書いたらよいかわからずに途中で放り出したりしつつ、でもここ2,3ヶ月でやっと自分なりのスタイルというか、「書く姿勢」を探り当てることができたような気がしている。だから、共謀罪について書けない、自分の言葉が浮かんでこない、というのにはちょっと情けない思いをしていた。皆さんの情報と情熱に圧倒されて、訪問した先でちょっとコメントをさせて頂いたりして、お茶を濁していた。
けれど、やっと自分の言葉を見つけた。それがこのエントリーのタイトル。特に何の変哲もないタイトルだし、これから書く内容だって変哲もないものだけど、でもこれは私にとっては「私の言葉」だ。ここを基点に、書く。
その前に、この「私の言葉」を見つけるきっかけを頂いたブログを紹介させていただく。ひとつは「共謀罪とカルト前夜」(T.N.君の日記)。もうひとつが「オウムのような「組織的犯罪集団」を潰すためには「共謀罪」を新設するしか無い!?(雑食系ブログ(仮))」。どちらもオウムというカルト集団を孤立した現象と見ずに、世の中の様子と関連させて考え、その延長線上で共謀罪創設への反対を唱えられている。
ブログを巡っていると、考えるためのヒントを頂くことがとても多い。従来のマスメディアはひとつの視点を広く伝達するものだが、ブログは多くの視点に簡単に出会うことができるという利点がある。出会いとつながりをたくさん提供してくれるブログは、やっぱりいい。

共謀罪はつながりを断ち切る種をバラ撒く

共謀罪が創設されると冗談も言えなくなるんだ、ということが云われている。政府はそんなことにはならないと繰り返しているが、信用はできない。ただ思うのは、この我われの「信用できない」を多くの人が信用できないのではないか、と。少し疑り過ぎではないのか。そう感じられる方も多いのではないかと思う。特に「お上」を信頼する習性を持っておられる方々には。
しかし、共謀罪が創設されると冗談も云えなくなる、というのは言い過ぎではない。共謀罪が創設されようがされまいが、冗談が言える環境では冗談は言っても構わないし、そういう条件が整わないところでは冗談は言うべきではない。これは共謀罪云々という以前の、社会人としての常識に属することだが、この常識がガラリと変えてしまう種が共謀罪には仕組まれているからだ。
人はここでは冗談を言ってもよい、と感じると冗談を言う。「あのやろう、殺してやりたい」などと、時には鬱憤晴らしも含めて過激なことを言ってみたりする。そういう発言も状況によっては許容される。ただ、本当に冗談を言ってよい環境だったのかどうかは、実は誰にもわからない。それは受け手の問題だからである。言った冗談を相手が冗談と受け止めてくれるかどうかは、わからない。多くの人がそういう失敗をした経験をお持ちのはずだ。ましてそれを傍で聞いている第三者がどのように聞いているかなど、分かる由もない。
共謀罪はこの第三者に「殺してやりたい」という発言が冗談であるかどうか、判断する権利を与えるとうものだ。注目すべきはここには発言者本人の真意など関係ないということだ。
とある2人が居酒屋で飲んでいた。その上司との関係が上手く行かず一人が「殺してやりたい」と云い、もう一人がその言葉に同意した。ここでは「殺してやりたい」という言葉で2人はつながったわけだけれども、そのつながり方は本来誰にも判断できる性質のものではない。おそらく発言者当人にだってわからないだろう。そのわからないものを他人が勝手に解釈したものが、犯罪の構成要件となってしまう。第三者も冗談と受け止めてくれるかもしれないが、その保証はない。ならば、わが身を守るためにはどうしたらよいか。「殺したい」という発言によるつながり方はしないほうが利口だ、ということになるのが自然ではないか。
言葉はそこに多種多様の意味を含み、多種多様の解釈が可能である。「殺してやりたい」という表現が愛情の表現であるということだってありえる。ただ共謀罪が創設されると「殺してやりたい」という愛情表現はしないほうがよい、ということなる。だれかがこの「殺してやりたい」を文字通り解釈する可能性がある。この可能性が表現の幅を狭めてしまう。しかも共謀罪が適用されるのは殺人罪だけではない。600以上の犯罪がその対象となるという。このことがどれほど表現の幅を狭めることになるだろうか。
さらに重要なのは、表現の幅の問題ではない。表現を含んだコミュニケーションの幅をも狭めてしまう。冗談を言える環境か否かの判断の基準が共謀罪は、創設されることによって言えない側に大幅に偏ってしまうことになる。これはコミュニケーションの「場」を殺してしまうことに他ならない。とある人の「殺したい」発言は、大多数の者にとっては受け入れられるものであったとしても、誰か一人でも受け入れられない者がいるかもしれないという小さな可能性によって、全体として受け入れられないものに変貌してしまう。このようにして、それまでは受け入れられたものが受け入れることが危険なものに変わる。受け入れること「=つながること」がこうして断ち切られていく。

もうすでに多くのつながりが断ち切られている

ほんの少し前まで、日本の社会には多くのつながりがあった。地域社会というは「同じ郷里で生まれた」というだけで受け入れるというつながりであり、職場社会というのは「同じ職場で働く仲間」というだけで受け入れるつながりである。この「つながり」は精神的なものばかりではない。実際にキチンと機能していた。ところがこの機能がお金によって破壊されてしまっているのが、今の社会のあり方だ。機能だけ破壊されたって精神でつながっていればいいじゃないか、と言う者がいるなら、私はその者には「愚か者」といいたい。人はそう簡単に割り切れるものではない。その証拠が今のなんとなく不安な世の中だ。
「共謀罪とカルト前夜」(T.N.君の日記)は、そういう不安な社会の反映がオウムのようなカルトとして現れるのだと指摘している。そして共謀罪はさらにその病理を深くするのではないか、と。そしてオウムのような〜(雑食系ブログ(仮))では、その病理を癒そうとするのではなく、自分たちのために利用しようとする権力者たちの「方針転換」を指摘してる。
共謀罪の創設を目指す者たちは、社会で暮らす大多数の者が不安という病理の中に埋没してしまうことになど、関心はないのである。美辞麗句という装飾でいくら上辺を飾っても、「共謀罪」という刃は人々のつながりを断ち切るためのものである。というのは権力者は人々のつながりを恐れるからだ。少数の権力者が多数の者たちを支配するには、多数の者たちの連帯を断ち切らなければならない。「金」は人々から横のつながりを断ち切り、「金」によって仲介される上下の関係のみを際立たせる。それを是正するための「権力」ももやは権力者たちにとっては自己保身の武器でしかない。

横のつながりを取り戻せ!

多数の敵は分断して、各個撃破する。これは兵法の常道である。さらに上策は内輪もめをさせることだ。こうすれば敵は自滅する。そのためには不和の種を蒔くこと。共謀罪はまさしく、その不和の種になる。
共謀罪創設は阻止しなければならない。だが、それだけでは足りない。もっともっと人と人とがつながりを作り、断ち切ろうとする者たちの付け入る隙を埋めていかなければならない。共謀罪阻止は、切れてきたつながりをまた再びつなごうとする動きへのターニングポイントとしなければならない。
私はブログに、この大きな動きを支えきれるだけの力があるとは思っていない。だが、その動きへ種を蒔くことはできるのではないだろうか。これは期待も含めて、そう思う。