ブログは世の中を変えられるか

今日頂いた2本のTBは、いずれも興味深いものだった。
ひとつは華氏451度さんの『感性礼賛――「知るは力」、ただしそれを支えるものの方が重要』、もうひとつがお玉おばさん『世に倦む日々さんへ』である。最初はこの2つそれぞれに、何か返答に当たるような記事を私のほうでも書いてみようかと考えていた。で、いろいろ考えていて気がついたのは、この2つともキーワードが「感性」になっていということだ。
「感性」がキーワードになっているということについて、華氏451度さんの記事の方には説明は要るまい。タイトルがずばり「感性礼賛」だから。しかしお玉おばさんの記事の方には少し説明する必要があるだろうか。

世に倦む日日

『世に倦む日日』というのは、とあるブログのタイトルである。大変に有名なブログだそうだ。お玉さんの記事はこの世に倦む日日さんへの批判というか、訴えというか、そういった内容のものだ。この世に倦む日日さんについては数日前にも半平太さんからTBを頂戴していて、そのときにも気にはなったのだが、またまたその「世に倦む日日」についてのTBが舞い込んできたので、これはどうしたことかと思ってその「世に倦む日日」を覗いてみた。幾つかエントリーを読むうちに、これはどこかで見たような文章だぞと思って考えてみるうち、私の4月19日のエントリー『死刑は廃止すべきか否か?』を書くきっかけとなったアルバイシンの丘さんの『死刑考③ 光市事件』の、そのまたきっかけになっていたのが世に倦む日日さんの記事だったことに気がついた。なんとも記憶力の悪いことで、恥ずかしい。
今日のエントリーのタイトルの「ブログは世の中を変えられるか」は、これまた世に倦む日日さんの「憲法記念日の憲法報道 − 朝日新聞世論調査と「九条の会」サイト」から拝借した。記事の補遺として「− ブログは現実政治を動かせるか −」の一文があって、この問いについての私なりの回答を「感性」を切り口に考えてみようと思ったからだ。

知性は切る力、感性はつなぐ力

またまた人様のブログからの借用なのだが、「山の手の日常」さんの『らつする』というエントリーの中で、知性を的確に表現した文章を見た。

今の自分のありよう・考え方だけを、人類の唯一のそれと思っている人を「無知」と言う。「以前はこうではなかったのかもしれない」「他の所ではこうではないのかもしれない」と考えられる人は(たとえ具体的にどうであるかを知らなくても)知性のある人である。

もう少し正確に言うとこの文章は「知性」についての文章ではなく「知性のあり方・知性のある人」についての文章である。「以前はこうではなかったのかもしれない」「他の所ではこうではないのかもしれない」と別の切り口を探ろうとする姿勢、これが「知性がある」ということであって、ある物事を切り取って分析する力が「知性」である。
この知性の力というのは、言葉の力と表裏一体のものである。知性で切り取った切り口に、文字なり発音なりを当てはめたものが言葉である。昔、聞きかじった言語学の術語を用いてみると、「切り口」がシニフィエであり「文字なり発音なり」がシニフィアンとなる。
「虹」という言葉あり現象がある。この虹は、日本では7色(赤、橙、黄、緑、青、藍、紫)に分けるが欧米では6色とか5色らしい。虹という現象は白色光(可視光線の全ての波長が入り混じったもの)がプリズムとして作用する空中の雨粒を通過することで、光の波長による屈折率の差から赤から紫までの光のスペクトルの分解されたものである。この光のスペクトルは連続したものであるから、どこかに切れ目があるわけではない。そもそも切れ目がないものをあたかも切れ目があるように捉えるのが知性という作用であって、そこに言葉(色)を当てはめる。この切りかた当てはめ方によって7色になったり6色になったりするということだ。
では「感性」の方はというと、例えば「赤」という色、紅葉の赤か夕陽の赤か、とにかく虹以外で見た「赤」という切り口を虹の中で見出す力、これが感性なのである。色についての感性に優れた人は、例えば赤と橙の間にも色を見出す。しかし赤と橙の中間を表す言葉は存在しないので、既存の言葉を組み合わせて説明したり、別の言葉を作ったりする。また逆に色についての感性が鈍い人(気の毒なことに「色盲」の方もいる)は、赤と橙の差を捉えることができない。そういう人にとっては「赤」という言葉も「橙」という言葉も意味を成さない。そのような人は虹を「赤」の切り口でも「橙」の切り口でも切ることができない。
感性についてこのように考えを進めると、物事を切る力を最初は知性の力だと云ったが、本当は感性の力なのではないか、と思えてくる。知性か感性か、どちらとも云えないことこそが人間の精神作用というもので、「知性」「感性」とに分けてしまうことが間違いなのである。考えれば考えるほど、「知性」「感性」に違いがわからなくなる。では「知性」「感性」と分けるのは100%間違いかというとそうでもなくて、やはり物事を切る力とつなぐ力の両方があるように思える。ただ、知性も感性も本来は未分化のものだ、としてしまうと話が先に続かないので、切る力・切り口を言葉に固定する力を「知性」とし、いろいろな切り口をつなぐ力を「感性」としておく。

人はつながることが大切

さて、ふたたび世を倦む日日さんの文章を見てみる。この方はとても知的な方だと思う。その視点は鋭い。いわば「切る」ことにはとても長けている。例えば、こういう記述。

大胆に言えば、日本の若い世代の多くは「地域社会」と「職場社会」の二つを最初から剥奪されていて、生きる上で必須であるはずのコミュニティの契機を喪失させられている。だと仮定したとき、彼らにコミュニティの代替物を与えているのは、その可能性としてまず考えられるのは、匿名共同体の「ネット社会」であろう。

おそらくはこの指摘のとおりだろう。「生きる上で必須であるはずのコミュニティ」とまで指摘してある。にもかかわらず、

全国津々浦々に4700の拠点を組織したという「九条の会」の政治戦略を見ながら、何か嘗ての毛沢東ホーチミンが指揮した農村解放区戦術の歴史を連想してしまった

として、切って捨ててしまう。何処が「切っているのか」というと「政治戦略」という言葉がそれに当たる。この言葉あるのとないのとでは、この文章が訴えるイメージががらりと変わる。これはあたかも誰かが裏で糸を引いているとでも言いたげな文章になっている。仮に誰かがそういう戦略を元に9条の会を組織したものだとしても「全国津々浦々に4700の拠点を組織」できた成果は全てその戦略に帰するわけではない。その背景には人々の「つながろう」という欲求があったからである。そこのところを「世に倦む日日」さんは見えないのか、それとも敢えて切って捨てているのか。
またブログについても次のように切って捨てている。

私の結論は、繰り返すが、政治を動かせるブログとそうでないブログの二つがあるということで、人が注目するブログは政治を動かす可能性のあるブログであり、だからこそ、数多くの人が価値を認めて来訪するのだと考える。

そしてそうでないブログについては

それは単に自分のブログが政治を変える力がないから、その事実を認めたくなくて、劣情と嫉妬を隠蔽し真相転嫁するための自己説得として、ブログでは政治を変えられないという言説を無理に一般化しようとしているのではないだろうか。本当の心理的動機は、現実に政治を動かしているブログの客観的実在を認めたくないのであり、擬似的に一般化した「ブログ無力論」に(無力者たちの)支持と共感を集め、後ろ向きな小さな政治の渦を作って、自己正当化を補強したいということなのではないだろうか

やはり世を倦む日日さんには「つながる」ということが見えていないようなのである。お玉おばさんが非難し、訴えているのはまさしくこの点であると思う。

言葉はつなぐことが苦手

ビラにせよ、ブログにせよ、主に言葉を使うことによって成り立つメディアである。上で指摘したとおり、言葉は物事の切り口を固定化してしまう作用がある。だから、そもそもからしてつなぐことが苦手なのである。
「愛」という言葉がある。「受ける」という字の真ん中に「心」と書く、という指摘を最近どこかで見かけた記憶があるが、この比喩のごとく「愛」とはつながることそのものである。ではこの「愛」を定義してみよう。どのように定義できるだろうか。人によってさまざまな定義があろうが、「愛」をどのように定義してもその定義はもう「愛」ではない。定義した、言い換えれば「切った」瞬間に「愛」は死んでしまう。
では、人は「愛」を言葉で伝えることを無駄だからしないか、というとそんなことはない。それこそ倦むことなく生み出される恋愛小説を見ればわかる。人はつながることが苦手な言葉を使って、つながろうとする営為をやめはしない。
こんなことを想像してみる。見も知らぬ誰かから「愛している」という内容の手紙を受け取ったとする。そのときにどう感じるか、である。まあ、人それぞれであろう。恋多き乙女(陳腐!)であれば、どんな素敵な人が私に恋を告白してくれるのかと期待に旨を膨らますのかもしれないが、気味が悪いと感じる人も多かろう。「愛」という言葉でつながるには、前提条件が必要なのだ。
「つながろう」として日々ブログにエントリーを重ねている人たちは、このことを肌で感じていると思う。「つながろう」と意図したときの言葉のみによるコミュニケーションの限界。これがあるからこその「ブログ無力論」なのだ。自己正当化ではなく、自己の限界を乗り越えようとする営為なのである。だから「つながろう」とするものは、ブログを捨てて街に出なくてはならない。
こう考えると、ビラ巻きにもそれなりの効果は見出せる。ビラ撒きは画一的で、つながろうとするにはあまりにも稚拙な方法だとは思うが、見ず知らずの誰かに「つながりましょう」と働きかけをしてはいる。この点がアクセスを待つだけのブログとは決定的に違う。
その点、「切る」ためにブログを活用するものは、楽だ。言葉のもつ本来の力を発揮させればよいからである。その言葉は「つながる」感性を持たないものには、容易に響く。ブログは「切る」側にとっては大いに力を発揮するだろう。

あとがき

権力やお金は世の中で切る方向へ作用する、代表的なものだ。つなぐ方向へ作用する職場や地域がお金によって崩壊させられつつある今、人々はますます孤立させられることになっている。
ところで、「世を倦む日日」を見て驚いたのだが、「STOP THE KOIZUMI」と大きく書いてある。最初は気がつかなかった。見ていて意識に上ってこなかった。文章の内容からして、そうとはまったく思わなかった。さらには世を倦む日日さんは「改革ファシズムを止めるブロガー同盟」の発起人だと知って、尚のこと驚いた。
この人はどう見ても「切る」人である。「つながること」は故意かそうでないかは知らないが、まったく視野に入っていないように見受ける。そう、権力やお金を駆使して格差というもので社会を輪切りにしようと企んでいる人たちと同類の人間のように見えるのだ。
仮に世を倦む日日さんが「つながること」を故意に考慮に入れていないならば...、いや、憶測は止めておこう。

さらに追記(5/8早朝)

このエントリーの反響には、少なからず驚いています。皆さん世を倦む日日さんとは浅からぬ「歴史」があるようです。新参者の私が「つながる」なんて言いながら、横から出てきて世を倦む日日さんを切って捨ててしまったみたいで、なんだか罪悪感があります。
お玉おばさんの「世を倦む日日さんへ」の記事は、世を倦む日日さんへの非難と訴えでありましたけれども重きが置かれているのは、「訴え」の方ではなかったかと、今更ながら思っています。まだまだ「つながろうよ」と訴えておられる。訴えることを諦めておられないのです。
世を倦む日日さんを「切る」記事を書いた私が云うのもなんですが、私たちが重きを置くべきは「切る」ことよりも「つながる」ことです。平和のために憲法九条を守ろうと運動する私たちは、「つながろう」とする動きの中に例外を作ってはいけません。つながる例外を作って「捨てて」しまえば、そこがまた平和をかき乱すもとになってしまいます。
私たちが求めているのは「絶対平和」のはずです。この世の誰もが例外なく平穏に暮らしていける、そんな世の中です。青臭い理想だと揶揄され、実現は不可能なように思えても、その理想への希望だけは捨てたくありません。「つながろう」と希求することとは、希望を捨てないことです。例外を作ってしまって、「仕方がない」と諦めてしまうのならば、それは例えばアメリカのブッシュ大統領と大して違いはありません。彼とて「例外なく」平和を破壊しようとしているわけではありません。おそらくは、彼は彼なりに平和を作ろうとしているのでしょう。ただしその平和は「相対平和」です。最初から例外を設け、限定された世界の中でだけでの平和を望んでいるのでしょう。
このことはブログにおいても、同じことだと思います。とくらさんが「安全装置としての愛が必要なんだね。」で引用されている、世を倦む日日さんの引用を、ここで私も引用させてもらいます。

TBはWINWINのコラボレーションであり、同時に人と人の出会いである。そこからスパイラルが広がる。これほどスリリングでロマンティックなものはない。ブログとはTBだ。

ブログにはTBという「つながろう」と働きかける機能が備わっています。だからこの言葉の如く、ブログはブログなのです。
私は「言葉はつながるのが苦手」と書きました。華氏さんはこの見解に同意してくださいながらも、それでも言葉で伝えたいとコメントをくれました。アルバイシンの丘さんは、この見解に違和感を示しつつブログを捨てないとTBをくれました。大切だと思うのは、一つの見解に同意するとかしないとか、そんなことではなくて、捨てない、つながることをあきらめない、ということです。この姿勢があるからこそ言葉を用いて議論をしたりする。議論をして、なかなかつながらなくて、やっとのことでつながったと感じられたときの達成感というか安堵感というか、その満たされた思いこそが絆となるのでしょう。この思いは、もし言葉が容易につながるものならば、その分浅いものになるのではないでしょうか。
世を倦む日日さんは、とても知的な方で「切る」のに長けています。これは本文でも書きました。人間の創造活動というのは「切る」ことから始まります。「つなげよう」と思っても切り口ががたがただと上手くつながらない。だから切ることはとても重要なことです。家を建てるにしたって、柱や板の切り口が真直ぐでなければ、上手く建てられません。
もし誰かが切って捨ててしまっているのなら、それを拾えばいい。拾って、自分の家を建てる材料に使えばいい。それだけのことです。そうしていれば、いつか「つながる」のではないか。そう期待しつつ。
 
ここで私は、一つ反省をしなければなりません。この文章を書いている立った今の時点で、私はまだ世を倦む日日さんにこの記事のTBを送っていません。どうせ削除されるだろうと、皆さんのお話から勝手に推測して、諦めていたのです。けれど、諦めてはいけませんね。お玉オバサンに倣って、「つながる」ためのTBを送ります。