「木」の生命、「森」の生命

現在の私の職業は樵(きこり)、つまり林業に従事しています。この職業は、日々木を伐って、私が今まで生きてきた時間よりももっと長く生命を保ってきた命を奪うという、罪深い職業です。この職業に就いていると、より長く生きてきた生命を奪うことに喜びを感じてしまうようになるから、始末が悪い。けれど、開き直れば、日々生命の尊さに接することのできる職業でもあります(ほんと、開き直りだ)。
林業の仕事は木を伐るだけではありません。木を伐った山に再び木を植えて育てていく、造林という仕事も林業のなかで大きな位置を占めます。人の手によって植えられた森、これを人工林といい、森林面積の4割になります。森林面積は国土面積の7割ですから、日本の国の面積のうち約3割が人の手によってつくられた森ということになります。この多すぎる人工林がスギ花粉症などの問題を引き起こしているということは、周知の通りです。

植林から間伐

現在の日本の林業では、一斉植林が主流です。つまり全ての木が切り払われた林地に一斉に木の苗を植えるというやり方です。この方法は日本林業発祥の地である奈良県吉野地方から広がったもので、もう500年もの歴史があるそうです(まだ500年しか歴史がない?)。かつて吉野地方では1町歩(≒1ha 林業では未だ、町歩という単位を使う)1万2千本もの木苗を植えたそうですが、現在は3〜4千本といったところが標準です。
さて、林地に植えられた木苗は、全てがそのまま大きく育つわけではありません。仮に1町歩4千本とすると、木と木との間隔は1m60cmしかありませんから、こんな間隔で50年100年という木が育つことができるわけがありません。放置しておいても自然淘汰され本数は減っていきますが、林業では人の手による間伐という作業を行います。要は「間引き」ですね。この作業を木が生育するに従って繰り返し、50年の時点で1町歩あたり500本から800本、100年になるとさらにその半分というのが望ましい人工林の形とされています。
(もう少し林業の仕事内容をお知りになりたい方はコチラをご覧ください)

間伐は木の命を奪って森の命を蘇らせる行為

現在の林業の置かれた状況は大変に厳しいものになっています。安い外材が大量に輸入されるようになったこともあり、ほとんどの人工林が採算をとれなくなくなってしまっています。その結果がどういったことになっているかというと、本来ならば人の手を入れて本数を減らす作業をするべきところを、その費用が捻出できないために放置されるということになってしまっています。
このように放置された人工林は、さまざまな問題を引き起こします。難しく言うと「森林の公益機能」が低下するのです。森林には木材の生産という機能の他に、水源の涵養、山地災害防止、生活環境保全、保健文化などとさまざな機能を持っているのです。
どこかで借りてきたような言葉を使うのはこれで止めにして、私自身が実際に間伐作業に従事したときの感想を書いてみます。
木の生長が進み、林地の空間が全て木の枝で塞がれて暗くなった林は、とても窮屈で荒れた感じがします。まず、光が差し込まないので、暗い。長らく光が差し込まない状態で放置された林だと、下草が全てなくなり表土が雨で洗われてしまっています。たくさんの木があるのと裏腹に、その木の下の空間は砂漠にも似た感触があります。こんな人工林には、動物たちの姿はありません。木のほかの生命といえば、菌類は別として、あとは木に寄生する昆虫ぐらいのものでしょう。とても貧しい生態系になってしまっています。
そのような林の木を間引き、地面まで光が差し込むようにしてやります。そうすると、人の感じる印象としても、明るく、ストレスから解放されたように感じます。森が蘇ったように感じるのです。そしてこのことは、人の印象だけの話ではありません。
このように間伐がなされた林には、次第に下草や下層木が生えるようになり、やがて豊かな生態系が戻ってきます。本当の森 ― 木がたくさんあるというだけでなく、さまざまな生命が互い共生して生きている ― が蘇るのです。良く手入れされた人工林は、自然林よりも生態系が豊かだという研究データもあるくらいです。
間伐は、一本一本の「木」という視点で見れば、それは生命を奪うことに他なりません。ですが視野を広げ「森」という視点で見れば、これはその生命を蘇らせることになります。このことから教えられるのは、環境は有限だということに尽きます。そしてこの環境問題は、人間であれ、木であれ、同じなのです。間伐の原理を人間社会に持ち込むことは大変に危険なことですが、そこから教えられる環境問題からは目を逸らしてはいけません。

諏訪大社御柱祭の教え

人工林の問題は、全て人が人為的に木苗を植えたことに起因します。この造林方法は労働集約的で現在の経済基準から見れば非効率的な方法なのですが、人間にとって利用価値の高い優良材を多数生産するという点に限って云えば、非常に有効な方法です。
人間のなすことは、すべてがこのありさまです。人為的なのです。つまり、自然のもの、あるいは人為的につくられたもの(具体的なモノであっても抽象的な概念であっても)のなかから価値を発見し、それを利用する。上手く利用できるように作為を施す。厳しい自然環境の中を、この方法によって他の種との生存競争を生き抜いてきたのです。ですか「人為的な」なことは人間という種にとっては自然なことなのです。
残念なことは、この「人為的」手法があまりにも大きな成功を収めすぎたことです。かつて吉野の地で現在の「人為的」な造林方法が始まった頃には、「人為」は当時は無限のものと思えたであろう環境に与える影響は微弱なもので、無視できるものでした。ところが現在はこの「人為」が国土の3割を占めるに至っています。何の影響のないはずがありません。
我々人類が「人為的」に収穫した果実は、実に素晴らしいものです。私自身がいま向かっているPCにしてからが、その果実のそのものです。ウェブ進化論ISBN:4480062858梅田望夫氏が指摘されている通り、この世界には洋々たる未来があります。もっともっとこの果実を味わいたいという願望を、正直なところ、私自身が捨て切れません。
信濃の国諏訪大社には、7年に一度、御柱祭という奇祭が行われます。その起源も定かではない、非常に古い祭りです。この祭りで執り行われる神事は、直径約1メートル、長さ約16メートル、重さは約12トンもある樅(もみ)の大木を神殿の四隅に建て、最後には木落としと称してせっかっくの大木を「捨てて」しまいます。このような祭りにはどんな意味があるのか、今では忘れられてしまっているのではないでしょうか。
私が思うに、これは戒めです。神事に供えられる大木は、いわば果実です。長い年月を経なければ収穫できない果実です。この果実を7年に一度の間隔で16本収穫するには、広大な森が必要です。大きな果実を収穫するには、広大なバックグラウンドが必要だ、だから豊かな自然は守らなければならない。森から得られる果実のもっとも大きなものを神に供えることで、豊かな自然環境を守ることを課した「戒め」なのではないでしょうか。
この考えは、現在の科学的な見地に立っても理に適っているように思います。人類は生態系の頂点に立っています。食物連鎖ピラミッドの頂点と云ってもよい。この頂点を養うには、大きな地盤が必要です。ですが私たちは、収穫を得ることのみに汲々とし、自らの地盤を省みることが少なくなってしまっています。

森を観ること、木であること

先週のUTSでは、日替わりコラムのテーマとして「愛」を扱っていました。先週の火曜日のluxemburgさんのコラムのなかで、luxemburgさんの恩師の言葉が紹介されていました。

自分や身内、自国を愛することなどのために学問はいらないが、遠く地球の裏側にいる人の苦しみに思いをはせ、自分の生活がその人たちの苦しみとどう関連するのか、そのメカニズムを明らかにしてくれる、それが学問だ。その人たちの苦しみが目の前のことのように見えてくる、だから学問はすばらしいし、それを見せてくれるものでなければ学問ではない。その人たちを愛し、その人たちを愛する機会を与えてくれた学問を愛し、それをせずにはいられない自分を大いに愛しなさい。

私もこのお話に感銘を受けた口です。このお話を「森」と「木」という見地から読み返させていただければ、学問とは「森を観る」ということです。学問で観えてくる森を愛しなさいということなのでしょう。
ですが同時に、自分は一本の木に過ぎないということを忘れてはいけません。人為によって位置づけられたとはいえ、生命であることには変わりはありません。愛すべき価値のあるものです。また、いかにその木が森全体を観ることができる学問を修めようとも、自分が森であると勘違いしてはなりません。自戒を込めて、このことを記しておきたいと思います。