所有

資本主義の理念によると、所有は「絶対」なんだそうな。
そして、この考え方はキリスト教から来たものだと。
創造主にとって世の中のすべてのものは私的所有物であり、だからいかようにでも処分することが出来る。
この思想が人間関係においても適用されるようになったのが、資本主義的所有であると。
 
こういう感覚は、まるで理解できない。
この本小室直樹の資本主義原論では、この感覚は歴史的にも地域的にも限られたものだと指摘しているが、
そうなんだろうなと思う。
なぜかって、いくら所有という概念が頭の中で創られたものであるとはいえ、目の前の現実とあまりにかけ離れているから。
キリスト教という宗教は、砂漠の宗教なんだな、とつくづく思う。
 
日本の田舎のように、いまだ自然の勢力が強い場所ではこういう思想はまったく的外れのように思える。
いくら人間同士で勝手にこれはオイラのモノ、あっちはアンタのものと取り決めても、そんなことは自然はお構いなしだ。
一生懸命耕した畑を、タヌキやシカやイノシシが荒らしまわる。
人間にとっては荒らされるということになるのだが、
野生の動物たちにとってはそれが彼らが生きるための方策なのである。
そんなことは、田舎の人間なら誰でも理解している。
所有しているといえども、それは人間同士の間だけの取り決めでしかないを肌で知っている。
だから所有が「絶対」などという感覚にならないのである。
 
資本主義は多くの人が指摘するとおり、自然を考慮に入れない体系であるようだ。
この本の中でも自然、つまり環境問題については何も触れられていない。
「原論」のなかに自然という要素はないわけだ。
そしてその資本主義の基本単位である「通貨」も自然のありようとはかけ離れたものだ。
このようなシステムが自然のルールと相容れるはずがないのは、当然のことだろう。