坂東眞砂子さんを全面的に支持します、とまでは言い切れないが

坂東眞砂子なる作家の名前は、「子猫殺し」のエッセーがネットで話題になるまで知らなかった。ホラー作家で直木賞を受賞しているということらしいが、ホラーも直木賞も興味がないし。『死国』という作品名は映画にもなったし記憶にはある。見てないけど。
 
さて、そのエッセイの内容だが、

こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。
 家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投げるのである。タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がころころしている。子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。自然に還るだけだ。
 子猫殺しを犯すに至ったのは、いろいろと考えた結果だ。
 私は猫を三匹飼っている。みんな雌だ。雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊して、やがていなくなった。残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。タヒチでは野良猫はわんさかいる。これは犬も同様だが、血統書付きの犬猫ででもないと、もらってくれるところなんかない。
避妊手術を、まず考えた。しかし、どうも決心がつかない。獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。
 猫は幸せさ、うちの猫には愛情をもって接している。猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。生きるための手段だ。もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。
 飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。しかし、それは飼い主の都合でもある。子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から生まないように手術する。私は、これに異を唱えるものではない。
 ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。
 愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。人は神ではない。他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。どこかで矛盾や不合理が生じてくる。
 人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない。それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
 私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。

というもので、これが「トンデモナイコト」なのだそうだ。ネット上では坂東眞砂子は異常者扱いされている。
正直なところ、私にはこの文章のどこが「トンデモナイコト」なのか、よくわからない。これは私も性格異常者だからか? それとも環境から影響を受けたからか? 私が暮らすド田舎では、いまだこの「トンデモナイコト」がスタンダードである。
 
住環境からの影響ということでは、坂東眞砂子さんは次のように書いている。

ドライブの楽しみは、鶏の死骸を発見することだ。私の住むタヒチ島では、野生の鶏がたくさんいて、よく車に撥ねられて死んでいる。それを拾って、新鮮ならば食用に、傷んでいれば犬の餌にするのだ。
 数日前も運転していて、路上に茶色の塊を見つけた。しめた、とばかりにスピードを落として目を凝らすと、猫の死骸だった。残念、と思いつつ、また車の速力を上げてから、ふと気がついた。
 私は猫好きである。以前ならば猫の死骸を見たりしたら、胸を痛め、その死を悼んだものだった。それがタヒチで八年も暮すうちに、ああ、また猫が死んでる、かわいそうに、程度のものに薄れてしまった。
 見慣れたのだ。島には、野生の鶏ばかりではなく、野良犬、野良猫、野鼠などがうようよいて、車に礫かれた死骸が路傍に残されている。ぺしゃんこになった猫や、四肢を宙に突きだして死後硬直した犬、鼠などは灰色の湊みのように地面にくっついている。鼠に関しては、飼っている犬猫が殺した死骸が家の中や庭に転がっていると、尻尾をつかんで茂みに放り投げるほどに平気になった。
 考えてみれば、子供の頃、私の育った高知の山間の村では、犬猫、蛇の死骸などが路傍に転がっていた。なのに、都市生活を十数年続けたおかげで、いつか獣の死骸に違和感を覚えるようになっていたのだった。

きっこのブログからの孫引きだけど、まったく正常ではないか。「きっこのブログ」ではこれも性格異常者の証として提示されているけど。
この文章の正常さが理解できない人は、田舎で暮らしてみればいい。タヒチに行かなくても、日本でも過疎地に行けば十分、こういった感覚は堪能できる。
以前に「ウサギの交通事故」というタイトルで記事を書いたことがある。私が暮らしている環境では、このようなことは日常茶飯事だ。これらの野生動物は、私たちにしてみれば「食料」なのである。シカなんかよく見かけるが、そのとき思うのは「美味そう」である。実際、野生のシカの肉は美味いよ。スーパーで売っている牛肉なんか、比ではない。特にまだ温かい肝の刺身や脳ミソなんか、絶品。一度その味を憶えたら、「美味そう」になる。
 

 坂東さんは日経を通じて「タヒチ島に住んで8年。人も動物も含めた意味で『生』、ひいては『死』を深く考えるようになった。『子猫殺し』はその線上にある。動物にとって生きるとはなにか、という姿勢から、私の考えを表明した。人間の生、豊穣性にも通じることであり、生きる意味が不明になりつつある現代社会にとって、大きな問題だと考えているからだ」とコメントしている。

ZAKZAKからの引用だが、このコメントは私には十分納得できるものだ。
「こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている〜」とこの作家の期待通りに事が運んだわけであるが、このような記事にエキセントリックに反応してしまう世論の方が、私には「トンデモナイコト」のように思える。飛躍するが、こんなことだから世の中オカシクなってしまっているのだろう。そんなふうにすら、思う。
 
 
ここまで坂東眞砂子さんの意見を支持しておいて何だが、やはりこの御仁には少しは「異常性」はあるのかも、と思わなくはない。
それはまずは、このようなエッセーを公表したこと(コメントに納得したのとは矛盾するようだが、敢えて発表したということで)、それから、どことなしに「死を楽しんでいる」風情が感じられること。故に、タイトルで「〜とは言い切れないが」とボヤカシタのだが...。
他のブログでの批判記事等を読んでいると、坂東眞砂子さんは「日常的に」子猫殺し・子犬殺しをしているが如く書かれている。飼い犬・飼い猫に避妊を施さず、彼らの本能の赴くままにさせているのであれば、飼っている数からして、「日常的」になってしまうだろう。彼女の主張は主張としても、やはり常人には「殺し」は避けたいものだ。「それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのこと」とは、少しカッコ良過ぎる。字数が限られた紙面でという事情もあったのかもしれないが。
 
ここで私も告白しておくが、私もつい最近「子犬殺し」をした。半年ほど前のことだ。
我が家は2匹の犬を飼っていて、それが両方とも♀なのである。そしてお隣にオス犬がいる。3匹とも避妊は施していない。結果は...、「為せば生る」。
お隣のオスは都合3度、「為し」ている。一度目の成果は3頭なり。2匹は里親に引き取られ、1匹が残った。現在我が家にいる2匹の内の1匹である。2度目は1頭。これも引き取られていった。3度目は油断していた。事に及んだのは知っていたが、「生る」とは思っていなかった。親子(!)だし、まだ生後1年にも満たないし...、認識が甘かった。ヤツラはヒトのような異常性欲の持ち主ではない。為すときには必然性があるのだ。そして、その必然性は実った...。
その2匹はスタンダードな処理方法をとった。いや、最初は獣医に連れて行って、堕胎とついでに避妊を施そうと思っていた。獣医に予約を入れ、これから連れて行くという日の朝、犬小屋に行ったら生まれていた。2匹だった。オスかメスかも知らない。知ったら「処理」できなくなるから。私は彼らをダンボールに入れて、川へ捨てた。
 
この処理方法を取ったことを、今では後悔している。わが地元ではこの方法は未だにスタンダードであるので誰からも非難を受けることはなかったが、やはりもう一つのスタンダード、つまり里親探しをしてやればよかったと。もうあんな思いをするのはイヤだ。
 
だが、里親探しといっても、今後は難しいかもしれない。一度目は知り合いに引き取ってもらった。二度目はNPOに頼んで里親を紹介して貰ったのだけど、条件が「その後避妊手術をすること」であった。妻がそこを探して来て頼んだのだが、実は、大変申し訳ないけれど、その約束を未だ履行していない。NPOの方、本当にゴメンなさい。
けれど、いざとなったら連れていけないのだ。どうしても避妊などという「残虐な所業」ができない。私は子犬殺しよりも、避妊の方が残虐だと思っている。ついでだから、これも非難を覚悟で告白しておく。
全く勝手な理由だ。それは子犬は「水に流れて」しまって目の前からいなくなるのに対して、避妊は、それを施した相手と引き続き付き合わねばならないからである。
 
わが飼い犬を獣医に連れて行って、避妊手術を受けさせるとする。その彼女にどう声を掛ければいいのか? 「いい子だね、ヨシヨシ」ってか? 都会では避妊手術がスタンダードだそうだが、都会の飼い主たちはどのようにしているのか? 私には想像がつかない。
どのような言葉を掛けようが、欺瞞である。人間は、犬・猫を自分の身勝手でカタワにしたのだ。それを都合よく忘れて、その相手を可愛がれというのか? そんなことができるのか? 欺瞞の上に欺瞞を重ねる行為だ。
この頃の都会では、ペットも人間様並みだそうである。エサも奢るし、美容院だのホテルだの、死ねば人並みの墓場まであるという。だが、そうやって人間並みの待遇を受けている愛玩動物たちは、去勢済みであることだろう。何が人間様並みだ、笑ってしまう。
 
きっこのブログ」の主を始め、坂東眞砂子さんを性格異常者扱いである。確かに「いかにもホラー作家」と思わせるところがなくはないが、それでも私に言わせれば大したことはない。それよりも、自らが愛する存在を自分の都合で「改造」しておいて、それをキレイサッパリ忘れてまだ愛することが出来る。それどころか、そのほうがペットたちにとっても幸せだと考える...。どこか壊れているんじゃないのか? 
 
恐らく都会のペット飼育者は、ペットを自らの「所有物」と考えているのだろう。だから得手勝手な改造ができる。
ペットはモノではない。生命である。人間の思いのままにならないものだ。だから彼らとは「対決」しなければならないのだ。「対決」とは時と場合によっては「殺してもよい」ということである。
 
都会という空間は、人間の意識によって作り上げらた空間である。だから人間は無条件で最上位にある。故に愛玩動物は所有物となり、「飼い主の責任」という発想が生まれてくる。
自然環境が豊かに残る場所では、人間は無条件に最上位の存在ではない。「対決」の結果、暫定的に最上位あるだけのことで、その「対決」が未だ継続中だ。
農作物が野生動物に荒らされる。生い茂る草木との格闘。そしてそれは飼い犬・飼い猫とて例外ではない。
発情期の彼らのエネルギーの凄まじいこと。正直にいうが、2度目以降の「為す」はその「対決」に負けての結果なのである。お隣の飼い主がお年寄りということもあったのだが、彼らの溢れる情熱を押さえ切れなかった。そしてそのときの「対決」は彼らの勝ちだったのだが、私たち人間側はその結果を受け入れることが出来ず(これが「社会的責任」というものである!)、再度「対決」し、それの結果の一つがスタンダードな処理となったいう次第なのである。
 
「子猫殺し」「子犬殺し」がいまだ田舎ではスタンダードであるのは、「対決」が日常茶飯事だからである。人間の都合で犬・猫を殺すなんてことは、罪悪ではない。だが避妊は違う。これは逆に卑怯な方法と看做される。これを行えば圧倒的な力の差によって「対決」は一度で済んでしまうが。
 
なるほど、人間は確かに「技術」でもって自然環境を克服してきた。避妊手術もその技術の一つだ。だが、その技術という「人工」が行き過ぎで人間自身が本来持っている「自然」がおかしくなっているのではないのか? 坂東眞砂子さんはそれを問題提起したかったのではないのか?「生きる意味が不明になりつつある現代社会にとって、大きな問題」とは、そういうことであろう。
 
ここまで主張した上で、坂東眞砂子さんの行いにもうひとつ非難を表明したい。
つまり「対決」が不十分だ、ということ。「生きる意味」を問いかけるなら「対決」しなければだめだ。飼い猫・飼い犬たちの自然な欲求と「対決」することなく非力な子だけを処理するのはやはり卑怯だと思う。
 
 
もうひとつ言い訳するのを忘れていた。3度目のとき一度は「避妊」を考えたことについて。
私はもとより避妊には反対だが、妻は必ずしもそうではない。避妊を主張した妻の言葉の中に「犬ばっかりコロコロ子どもが出来てって、近所から言われる」というのがあって、それに抗し切れなかった...。私たち夫婦には子供がいない。望んでそうしているわけではないのだが。
あ、こんなことを近所の人は嫌味でいうというわけではない。ただ、それが男女が家庭を営んでいたら、スタンダードだというだけ。