遅ればせながら 『週刊金曜日』国民投票で勝つために

わが9条の会のお仲間(同志という言葉が本当は相応しいのだけど、「色」のついた言葉なので抵抗あり)に、先週の『週刊金曜日』を見せていただいた。ブログ界の一部ではこの週刊金曜日の記事を巡って意見が交錯していたようだが、お仲間にこの記事を紹介してもらったのはそれより前のことで、「これって私たちがやろうとしているのと同じだと思うけど」というそのお仲間の意見も聞いていた。ただ私のほうでサボっていて、読んだのは「交錯」を知った後。というわけで、週刊金曜日の記事とそれを巡る「交錯」について。

アピールとアプローチ

わが9条の会は発足当初、混乱していた。勇気ある夫婦の呼びかけで始まったわが町の9条の会だが、最初から「9条の会」ということでスタートしたわけではなく、とにかく9条について勉強しようというのがその夫婦の呼びかけだった。ただ、第1回目の会から既に「勉強するだけでは仕方がない。憲法改正の動きを阻止するために何か活動をしよう」ということで一致してその方向で動き出そうということになったのだったが、揉めることになったのは、その活動方針。簡単に言ってしまえば、アピール派とアプローチ派に意見が分裂したのだった。
私はアプローチ派だったのだけど、そのアプローチ派は会の名称に「9条」という言葉を入れることにすら難色を示した。「9条」を正面に掲げると、もうそれだけで抵抗を感じてしまう人が少なからずいる。少なからずというより、多数がそうであろう。9条改定を阻止することが活動の目的(正しくは目的は平和で9条維持は手段)であるにしても、名称にそれを掲げる必要な必ずしもないのではないか。例えば「九条の会」の呼びかけ人の9人だって、一応著名人だけど、果たしてどれだけの人たちがその名前にピンとくるのか。そういう著名人の意見だから9条改定を阻止すべきと言ったって、聞いてくれる人は限られているだろう。だから、私たちが私たち自身の意見として、平和というよりも、平穏な私たちの暮らしも守るために9条は変えてはいけないんだ、ということをひとりひとりに語りかけて行かくことをしなければ、多くの人たちの理解は得られないだろう。地道な活動で時間もかかるだろうが、そうでなければ成果は期待できないし、またそれこそが私たち草の根の活動の役割りではなかろうか、というのが私たちアプローチ派の意見であった。
対してアピール派の意見はこうだっだ。活動の目的が9条改定阻止であるならば、それを堂々と名称に掲げ、まず我々の存在をアピールすべきだ。とにかく会の存在を認知してもらうよう広くアピールをし、そのアピールを継続すれば理解も広まるだろう。第一、アプローチなどという地道な手法では、時間的に間に合わない。敵はすぐにも国民投票という決戦に臨んでくるだろう、と。
昨年の夏から月に2度ほど集まって(これオフィシャルな会合で、オフィシャルでない折衝は数多く行った)議論を繰り返した。なかなか議論が前進せず、それに嫌気がさして会に顔を出さなくなった人もいた。私など、活動しようとする勢いにブレーキをかけていると非難された(面と向かって言われたわけではないが)。まあ正直な話、意識的にブレーキをかけていたところはある。勢いは必要だろうが、勢いに任せて活動したってダメだろうと思っていたので。そんなこんなで会での議論は紛糾し、一時は会を割ってそれぞれで活動すればよいではないか、という意見が大勢を占めるまでになってしまった。
今にして思えば、これは生みの苦しみだったのだ。一度も具体的な活動をせぬままに会を割るのもあんまりだ、ということになり、とにかく一度でも何かやろうということで、手っ取り早いところでビラを作成して配ることにした。このビラを作成するに当たっても、その文言を巡って、ああでもないこうでもないと、いろいろあったのだが、それもなんとかクリアして、わが町の全戸にビラを配布するところまで漕ぎつけた。そのことが皮切りとなり、わが会は分裂の危機を脱し、今では近隣の会からも高く評価をいただけるほど活動的な会に変貌した。
現在のわが会の主な活動は、ビラ配布から継続しての月1回の会報の全戸配布。継続してといっても最初のビラを1号として、現在まだ4号まで(今月末には5号を作成しなければならない。一応、私が編集長なので、ホントはブログにかまけている暇などないのだが...)。それと、戦争体験を語る会。これも月1ペースで今月末に第3回目。という具合で活動的といってもまだまだ、たかが知れたものだ。
現在のわが会の現象として面白いのは、当初会報発行というアピール的手法に反対だったアプローチ派が、会報発行に一生懸命になっているということ。手法はアピール的なのだが全戸配布はアプローチ的であり、また会報の内容もできるだけ幅広い意見を入れて、アプローチ的なものにしようと心がけているつもりではある。そういう会報作成の過程で、なぜか当初アピールに積極的だったはずの人が自らの意見をあまり積極的に出さなくなり、今は作成はほとんどアプローチ派で行っているということになってしまっている。そして他の活動にも、もうひとつ積極性がみられなくなってしまっている。これはどうしたことだろう?(こんなことを書いてしまったらマズイかもしれない...)。

歴史が大きく動くとき

わが会の現状はこんなところで、とても「週刊金曜日」の記事に掲載されていた会のように戸別訪問に至るまでの活動は出来ていない。だが会報発行というアピール的手法で活動する中で少ないながらも帰ってくる反応をみると、やはり草の根レベルでの活動は地味であってもアプローチ的にやっていく方が浸透していくということが、実感としても感じられるようになってきた。会報が機縁となり、そこでたとえ立ち話であっても実際に会って直接言葉を交わすことが出来れば、100%とは行かなくても6割7割は伝わる。誰だって戦争はゴメンなのだ。9条云々は、平和を、いや、自らの平穏な暮らしを守るための方法論の問題でしかなく、あなたも私も戦争は嫌だねと互いに確認しあえれば、そこを出発点に話が出来る。そういう体験をポツポツとするようになってきたのである。
またまたこんなことを書くとマズイとは思うのだが、それでも書いてしまうと、当初アピールすべきと主張していた人たちは、実は単に「自分の考えをアピール」したいだけのことで、対話を望んでいたわけではなかったのではないか、と思えてしまう。会の活動が対話を主体にしようとする方向に進んでいくなかで彼らがフェードアウトしつつあるのは、そういうことなのかもしれない。憶測だが。
週刊金曜日」の記事を紹介してくれたお仲間はアプローチ派であって、現在も積極的に活動されている。その彼女が記事をみて「私たちと同じ」と感じたのは当然だろうと思う。なし得ている成果は別として、方向性は同じである。そのことを広く読まれるマスメディアの記事として読むことが出来たことを、とても心強く感じている。
週刊金曜日」の記事に出ていた戸別訪問のような方向性をもった活動が、どの程度全国の9条の会の行われているのか私は知らない。この記事はあるひとつの特殊な活動例を取り上げているだけかもしれない。だから以下はとても楽観的な憶測だけれど、そう断わりつつも書いてみる。
アプローチ的手法を取ろうとする活動が、全国の各地で同時発生的に始まっている。互いに連絡を取り合ったわけでもないのに、なぜか同じように考える人が各地に現れて、同じように活動を始める。それが徐々に広がり、ある臨界点を越えたところでブレークスルーする。何の根拠もない予感でしかないが、歴史が大きく動く時というのは、そういう時ではないだろうか。
歴史は常に動いている。歴史という表層に現れる動きは、大抵はごく一部の者が指導する形のものだ。だが時に、歴史が根底から大きく動くときがある。人々の意識が変わるときだ。そういう時はおそらく誰かが先導して変えるというものではないような気がする。私の超楽観的予測が当たると仮定して、9条改定を阻止したという歴史を後から振り返って眺めれば、その先導者として九条の会の9人の名前が歴史書に刻まれることにはなるだろう。だがこれは表層でしかない。その水面下には名も無き人たちの無数のアプローチが隠されている。歴史書に記述されない、というよりも記述し得ない歴史の本体とはそういったものではなかろうか。
 
バカなことを書いた。私には空想癖があって、これまでも何度かに空想を自らの行動の指針としてしまい、ドツボに陥ったことがある。今度もまたそういう羽目に陥るのかもしれないが、それもまた人生というものであろう。気がかりなのは妻が愛想を尽かさないか、ただそれだけ。
 
ブログ界の「交錯」についても触れるつもりだったが、これはまた後で。別エントリーにするつもりだが、書けるかな?
 
<逆TB>
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