アイスブレイク

一昨年の秋に、とある講座を受けたことがある。今日はその講座のことについて書いてみたい。講座の名称と目的は後で書きます。

自己紹介

その講座には20人足らずの人が集まっていただろうか。まずは型通り講師の自己紹介があり、その日の講座の内容と目的についての講師の講義が行われる。この講義の内容についても後述。3時間ほど講義は続いたろうか。
お昼の休憩を挟んで、午後から講座参加者の自己紹介が行われる。ここで行われた自己紹介はありきたりのものではなく、工夫を凝らしたものだった。
まず、カードが手渡される。このカードはホルダーに入れて胸へ付けて名札にするためのもの。そしてこの名札に書き込む名前を考えるように言われる。この講座の中で自分が呼ばれたい名前。もちろん本名でも良いし、職場や学校で呼ばれているニックネームでもいい。また新たに考えてもいい。とにかく何でもいい。そしてさらに、その名前に枕詞をつけろという。枕詞とは、その自分を紹介する簡単な言葉。「○○が好きな(枕詞)××(名前)」とか。「ホニャララになりたい△△」とか。私はそのとき、「きこり見習い中の◇◇◇」とした。(◇◇◇はナイショ。ブログとはいえ公表するのは何故かチト恥ずかしい)。
この名札作りにはかなり時間がかかった。皆が名前を付け終わるまで30分では済まなかったと思う。さっさと書いてしまった人もいたが、私はなかなか書けなかった*1知らないひとのなかで自分が呼んで欲しい名前なんて言われたって、どうにも恥ずかしい。逡巡してやっぱりきこりは外せないなと考え、◇◇◇は昔よく通っていた飲み屋で呼ばれていたのでいいか、とエイヤで決めた。決めてしまうと腹が据わる。逡巡していたときの不安感というか恥ずかしさが減退するような感じ。
さて、皆の呼び名が決まったところで次は自己紹介に入るわけだが、自己紹介の順番を決めるのにゲームをした。「スキヤキ」「フルーツバスケット」と言われる椅子取りゲーム。椅子を人数より一つ少なく円形にならべ、掛け声と同時に皆が席を立って椅子を奪い合う。最後まで椅子に座れずあぶれた人が罰ゲームとして、自己紹介をする。要領の悪い人は2度も3度も自己紹介をしなければならない羽目になる。また逆に最後まで自己紹介をしない人もいたが、これは講師が調整して自己紹介をさせた。させたといっても、ゲームで体を動かして参加者の緊張もほぐれ、“強制的”に自己紹介をさせたという雰囲気はまったくなかった。ほとんどの人が自己紹介を済ませた中で、自分だけ自己紹介していないのがかえって居心地が悪いというような感じになっていたのだろう。

心のキャッチボール

ひとわたり参加者の自己紹介が終わり、その次に行われたのがキャッチボール。参加者が皆で輪になって、キャッチボールをする。もちろん、ただのキャッチボールではない。心のキャッチボール。
相手にボールを投げるときに、そのボールを自分の大切なものだと思って、投げる。そのときに自己紹介した名前を必ず呼ぶ。相手の受け取りやすいように、投げる。受け取る方は、そのボールが相手の大切なものだと思って受け止める。投げて受け止められたら、周りの者は拍手。ただのキャッチボールではないが、ただそれだけのキャッチボール。
先ず講師がデモンストレーションを見せてくれた。素直に相手にボールを投げるやり方。何も難しいことはない。誰にでも出来る。相手の名前を呼び、相手の目を見て、相手が受け止めやすいように投げる、ただそれだけ。受け止めるときは返事をして、しっかり受け止める。両手で「受け止める」ということが相手にしっかり伝わるように、受け止める。
やってはならない投げ方、受け止め方のデモもしてみせてくれる。思いっきり投げつける。わざと取れないようなところへ投げる。ぞんざいに片手で受け止める。あっちの方を向いて、飛んできたボールを捕まえる。取りこぼす。無視して受け止めない。投げ方、受け止め方、声のかけ方、ただボールを投げる、受け止めるといっても、ちょっとした態度でその印象がガラリと違う。そして、このちょっとした態度の違いが、私たちが普段おこなっている他人との関わり方とオーバーラップする。
参加者は性別年齢がバラバラだから、たった1個のボールをやりとりするのだって中にはそれが難しい人もいる。そんな人には尚更、丁寧に投げる。時には受け止められるところまで、ぐっと近づいて投げる。受け止められたら皆で歓声を上げて、拍手。受け止められなかったら、ため息が漏れる。皆がうまくキャッチボール出来るようになったら、難度を高くする。ボールの数を増やす。ボールではなく、フリスビーにする。そうやって、たかがキャッチボールが単なるキャッチボールでないものに変わっていった。

インタープリタ

一昨年の講座の記憶を辿りながら今キーボードを叩いているわけだが、そうしながらも伝わらないのではないかと懸念しているのは、その場の雰囲気。いや、これは伝わるはずもなく、想像してもらうしかない。果たして想像してもらえる文章になっているかどうか?
心のキャッチボールはとても盛り上がったのだけれど、こういう「盛り上がり」は他人が冷静にみると、とてもバカバカしいように映るだろう。この講座で行われた自己紹介から心のキャッチボールへの流れは、こういった参加者のバカバカしいと思う気持ちを打破するために行われた、考えられたプログラムだったのである。これをアイスブレイクという。
アイスブレイクとは、氷を砕くという意味。そう、心の氷を砕くのである。こういったプログラムのお陰でほんの数時間前までは見知らぬ人の集まりだった講座参加者の集まりが、和気藹々と一体感のある集団へ変貌した。
ところで、そろそろこの講座がどういう講座であったのか、その名称と目的を明かさなければならない。インタープリター講座、自然と触れ合うことを目的とした講座であった。インタープリタとは仲介者、この場合、人と自然との仲介者という意味で、講座の目的をもう少し正確に言うと人と自然との仲介者を育てるための講座であり、アイスブレイクは自然と人とを仲介するための手法というわけである。
ここで参加者の自己紹介ゲームに先立って行われた講義の内容を簡単に紹介すると、次のような内容であった。
人が自然に触れ合おうとするならば、まず人は心を開かなければならない。ところが見知らぬ人が大勢集まるような講座の場合、人は周りの見知らぬ人たちへの緊張感から心を開くことが出来ない。周りの人をには心を閉ざし、自然には心を開くというような器用なことは出来ないから、インタープリターとして自然と人とを仲介しようとするならば、まず人の心を開くことから始めなければならない。これがアイスブレイクである。

インストラクターとの違い

心を開くこと、ここでいうアイスブレイクは、自然と接することに限らず、何かを伝えようとする時にはとても重要なことである。そのことは私に限らず多くの人が実感していると思う。例えば、学校で授業を受けたりするとき。教えるのが上手な教師は、伝達する技術もさることながらこのアイスブレイクが上手な人である。また、漫才師などの芸人。彼らがいちばん恐れるのは、観客がしらけてしまうこと。だから、先ず観客の心をつかもうとする。伝えることを仕事とする人は、アイスブレイクという術語を使うかどうかは知らないが、そのことの大切さは熟知している。
ただ、自然と触れ合うことを仲介するインタープリターの場合、大切にしなければならないのはその人の感性である。何かを教えるのではなく、発見してもらわなければならない。自分が予め用意してある答えを伝えてはならない。アイスブレイクが完了した状態で講師が回答を出すと、受講者はその回答を受け入れてしまう。これはインストラクターである。ある知識等を教えるのならそれでよいが、インタープリターの目的は違う。指導者ではない。あくまで仲介者である。
インストラクターがピラミッド型であるならば、インタープリターはサークル型である。一人一人の感性を認め、否定しない。誰かが感じることをそのまま認める。相手を認め、相手に認められることでさらにアイスブレイクが進み、心が広がる。心が広がれば、感性が広がる。そういった場を築くように誘導するのが、仲介者であるインタープリターの役目となる。

ファシリテーター

ここでこの講座の講師を紹介しておく。松木 正さんという方で、マザーアースエデュケーションという団体を主催しておられる。著作もある自分を信じて生きる
インタープリターという用語からも分かるとおり、こういった自然と接する手法はあちらから導入されたものであるが、もともとはアメリカン・ネイティブの人たちの発想が元になっているらしい。松木さんはラコタ族の人たちと居住区で生活を共にすることで、その発想の根源に触れてきたという。
松木さんの話を聞いていて思うのは、インタープリテーションの思想はアメリカン・ネイティブの発想だということだけれども、私たち日本人にとってはまったく違和感がなく、古来からの日本人、現代の日本人の多くは新自由主義的な発想に毒されているけれども、それでも根強く残っている日本人的な部分、そこに非常に近いのではないかということだ。さらに面白いのは、こういった手法がアメリカから導入されてきたということで、ということは、新自由主義的発想の本家であるアメリカでもこの手の発想が十分通用するということだ。こういう発想は、日本人の、アメリカン・ネイティブの、というのではなく、人間がそもそもから持っているものに根付いているのではないか。そういう気がして仕方がない。
話を元に戻すと、この松木さんとマザーアースエデュケーションは、最近はファシリテーターとしての仕事を引き受けることが多いということだった。ファシリテーションという用語は、最近ビジネスの場面でも会議の手法として注目されているというが、彼らの主に行うファシリテーションの舞台は、大人たちのビジネスの場ではなく子どもたちの学校であることが多いという。
近年、学級崩壊ということがよく話題にある。学級という場が壊れてしまって、本来の目的である学習が進まなくなる。こういった現象が各地の学校で見られるようになったということらしいのだが、彼はそういった場に出向いていって、崩壊した学級を立て直すということをするという。このときに重要なのが、とにかく「認めること」。松木さんが云うには「信頼のないところからは、何も生まれない」そうである。
彼らはこういった人間関係の構築をスキルとして確立しているようだ。ただ云うには、スキルはあくまでスキルであってそれ以前のもの(メタスキル=「信頼のないところからは、何も生まれない」)がないと、詐欺師に落ちてしまう、と。人はバカではないから、いずれ見破られ、また場は崩壊してしまう、と。なんだか、わが国のリーダーたちの話のようではないか。
ちなみに、この講座が行われた場所も紹介しておくと、奈良県川上村の森と水の源流館という施設。ここでは今年もインタープリター講座が行われるようだ。5/27,28で1泊2日の予定だが、近辺に在住の方で、興味がありお時間がある方はどうぞ。とっても面白いですよ(今年の講師は松木さんではなく、そのお弟子さんに当たる方。その人の講座も受けた経験がある。若いがスキル・メタスキルとも十二分のものを持っておられる)。私もまた参加したいのだけど、今年はちょっと予定が合わない。秋にまた2泊3日のプログラムであるので、そちらにはぜひ参加したいと思っているのだが...。

あとがき

「ピラミッド型・サークル型」という場のあり方は、これはメディアのあり方と対応するものがあると考えてる。つまり従来のマスメディアはピラミッド型、ブログはサークル型だ。半月ほど前に「ブログは世の中を変えられるか」というエントリーで、これまた中途半端な考察をしたわけだが、再び「ピラミッド型・サークル型」という切り口でブログについて考えてみたいと思っている。
 
<逆TB>
お玉おばさんでもわかる政治のお話「とっても変わった中学校」
とりあえず「教育基本法--私たちの宝がまたひとつ・・・・」
瀬戸智子の枕草子「フェミニズム運動が目指すもの」

*1:さっさと書ける人とそうでない人の差は「自分自身への自信」の差だと思う。この「自信」はUTSへのコラムに書いた「自信」なのだが、このコラムはまったく中途半端なコラムだ。この「自信」の所以にしっかり触れなければどうしても中途半端なものにしかならない。厄介なものを書いてしまったものだ。「自信がない理由」を晒さなければどうにも自分自身に収まりがつかないようだ