国を愛しているからこそ、平和を求める

先ほど、NHKのクローズアップ現代を見ていた。
今日は9.11、米同時多発テロが起きた日。あの事件から5年、番組は「アメリカの変化」を報道していた。
テロ事件直後には90%を超えた戦争への支持が、今では50%を割った。一貫して戦いを支持してきた保守層からも戦争の大義への疑問の声が出てくるようになっているという。
 
ニューヨークからの中継で、ピート・ハミルという方が出演していた。彼が言う。
ブッシュへの支持、そしてテロ戦争の大義は、真実が徐々に明らかになることによって失われていった。そしてアメリカ人たちは、国を愛しているからこそ、今のアメリカの状態はおかしい、戦争はやめるべきだということに気がつき始めている...。
 
 
そうだ、その通りだ。国を愛するのであれば、戦争なんかするものではない。
愛国心ゆえに戦争をするなんて、愚の骨頂だ。あの単純なアメリカ人ですら(失礼!)、それに気がつき始めているというのに。
 
しかし、アメリカがそれに気がつき始めたのも、自らが血を流したからかもしれない。
日本はまだ幸いなことに血を流すに至っていないけれども、戦争の愚かさに気がつくには、また再び血を流さなければならないのだろうか?
 
それを防ぐためにも、「真実」が広く知れ渡るようにならなければならないのだが。

男子誕生、おめでとうございます

ネットが繋がらないわずかな間にも、世の中日々刻々と変わって行ってしまいました。子猫殺しの話題、あっちこっちで人殺しの話題、役所の裏金、あべしがとうとう立候補を表明、etc。
そして昨日は、秋篠宮妃紀子妃殿下が男子を出産。今日も朝からTVはこの話題でばっかり。
 
それにしても、生まれたのが男の子で、ヨカッタ。本当にヨカッタ。
いえ、何も私はこれで男系天皇の系譜が維持されるからよかった、と思っているわけではありません。生まれてくるのは、男でも女でも、それはカミサマが決めることですからどちらでもいいわけなんですが、バカな人間どもは自分の都合でいろいろと言いますからね。男の子なら、そんなバカな批判もまず出ないでしょうから。ヨカッタ。
 
TVで聞いた論調の中で、私が気になったのは海外メディアの報道の仕方を紹介していたところ。多くの海外メディアでも大きなニュースとして報道されたということらしいのですが、その批評の中に「なぜ日本はいまだ男系に拘るのか?」という疑問があって、これにはあちらの王室が王位継承については長子相続が「伝統」であるのに対して、日本は男系が「伝統」という答えが簡単に返ってきそうですけれども、それにしてもその「伝統」がなぜいまだに維持されているのか? そこには理由があるがあるはずなんですが。
保守系の人々の唱える「125代もの長きにわたって続いてきた伝統であるから、存続させるべき」という主張は、理由もヘッタクレもなくて、最初からファイナルアンサーですからね。
日本も王室がいまだ存続するヨーロッパの国々と同じく、男女同権の民主主義国家ということに(一応)なってます。天皇家が日本の象徴であり、またTVのコメンテーターの一部が言っていましたが、日本のファミリーの象徴でもあるというなら、男系のみが天皇家を存続するという「伝統」はいまや民主主義的な規範とはマッチしなくなっていると考えるほうが素直でしょう。男系天皇を主張する人たちがみな亭主関白かといえば、必ずしももそうではないでしょうから。
 
男系天皇を維持しようとする主張は、男尊女卑の考えの表れだとする人も多いようです。だから男女平等を旨とする民主主義に反しているというわけですが、一方で、日本人は本当は、女系社会であるという議論もあるわけです。特に家庭の中では女性の方が力が強く、実権を握っている。
よく引き合いに出されるのが家計をどちらが握るかということで、欧米などでは稼ぎ手が男であるなら家計の主導権は夫が持っているのが当然なのに、日本では当然のごとく、妻が握ります。グローバリズムに乗っかっている「勝ち組」の人々はどうか知りませんが、「負け組」の私なども、当然家計は妻に握られているわけです。汗水たらして働いてくるのは男である私であるにもかかわらず。ですから「女の強さ」を日々実感しているわけです。
 
ところで、私の妻の実家はといいますと、これは珍しいことに夫の方、つまり妻の父親が家計の主導権を握っていたということらしい。毎月母に決まった額の生計費を渡していたということらしいのですが、不思議なのは、そういう家庭に育ったはずの妻が現在、何の疑問もなく、私から収入のすべてをとりあげてしまって恥じるところがない。家計の主導権を男が握る家庭で育ったのならその影響を受けていてもおかしくはないはずなんですが。これこそ日本人の「伝統」なのでしょう。
 
ですから日本では、「表」では男尊女卑といいながら、「裏」に入れば反対なのでしょう。そして、この「裏」こそが「自然」であるのだと思います。
欧米では「レディ・ファースト」という習慣がありますが、これもこの伝で考えてみると、「裏」では男の方が強いのでしょう。だから逆に「表」では女性を尊重する。そういうフリをする。
 
話を男系天皇の方へ戻しますと、その存続が主張される理由は、日本では「裏」では女の方が強いという「自然」な状態があるからではないかと思うのです。人間は自然を制御するために「制度」を設けます。そして天皇家も日本の「制度」のひとつです。天皇家という「表」の「制度」が男系でなければならないのは、「裏」の「自然」が本当は女性優位であるからでは? だから男系天皇の存続を主張する男性たちは「裏」では(家庭では)、きっとカミさんの尻に敷かれてるんだ、そう言って、妻とふたり笑ったのでした。
 
そうそう、噂によると、現官房長官はマザコンだそうな。やっぱり女性に組み敷かれている男の主張は...。

雷は怖い

先月の末、わが地方を豪雨+雷が襲った。夜中のことだったが、ヨメも心配することだし、一応、念のために電源のブレーカーを落として落雷対策をしておいたのだが...、ヤラレマシタ。我が家はCATVからネットに接続しているのだけど、どうもそこから雷が侵入したらしい。翌朝、PCを立ち上げようとしても電源が入らない。困った...。仕事に出かける前の気象庁のHPのチェックは欠かせないのに。
それにもちろん、ブログを覗けないのも困る。
 
その日は仕事から帰った後も他に用事があって忙しく何の処置もとれずにいたが、翌日の夜、メーカーのサポートに修理を依頼しようと思って、その前にもう一度念のため、立ち上がるかどうか試してみようと思って電源を投入したら、なんと、立ち上がるではないか! けど、ネットに接続できない。PC内をいろいろと覗いてみると、ネットワークアダプターがオカシイらしい。やっぱり雷だったのね。
まあ、けれど、他に問題はないようだから、メーカーに修理をしてもらうまでもなくLANボードを増設するれば済むだろうと思って、雨が降って仕事が休みの日に最寄の電器店に行って、LANボードを購入してきた。今、PCの部品って本当に安いのですね、驚きました。LANボードが1000円もしない。さあ、これでネットに繋がるか、と思ったら...、わがPCの増設用のポートはPCI Express だったのですね。恥ずかしながらExpress Busなんてのは、そのときまで知りませんでした。
 
で、改めて電器店に行って、Express用のLANボードはあるかと尋ねると、店には在庫がなく、取り寄せになるという。これは時間がかかりそうなので断って、友人に頼んでネットで購入してもらった。1000BASE-T ギガピットLAN対応、3750円なり。CATVネットにギガビットLANはオーバースペックだが仕方がない。
 
さて、これでようやくネットに繋がるぞ、と意気込んだが、またしてもダメ。ネットワークが検出できませんとくる。モデムもオカシイらしい。IP電話が使用できたのでモデムは大丈夫と思い込んでいたのだけど。これはCATV会社に連絡して交換してもらうよりほかなし。で、やっと昨日夕方、わがPCからネットに接続できました。
 
そしたら昨夜、和歌山でまた大雨+雷。今度は何にも被害はなかったけど。

坂東眞砂子さんを全面的に支持します、とまでは言い切れないが

坂東眞砂子なる作家の名前は、「子猫殺し」のエッセーがネットで話題になるまで知らなかった。ホラー作家で直木賞を受賞しているということらしいが、ホラーも直木賞も興味がないし。『死国』という作品名は映画にもなったし記憶にはある。見てないけど。
 
さて、そのエッセイの内容だが、

こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。
 家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投げるのである。タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がころころしている。子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。自然に還るだけだ。
 子猫殺しを犯すに至ったのは、いろいろと考えた結果だ。
 私は猫を三匹飼っている。みんな雌だ。雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊して、やがていなくなった。残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。タヒチでは野良猫はわんさかいる。これは犬も同様だが、血統書付きの犬猫ででもないと、もらってくれるところなんかない。
避妊手術を、まず考えた。しかし、どうも決心がつかない。獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。
 猫は幸せさ、うちの猫には愛情をもって接している。猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。生きるための手段だ。もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。
 飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。しかし、それは飼い主の都合でもある。子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から生まないように手術する。私は、これに異を唱えるものではない。
 ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。
 愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。人は神ではない。他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。どこかで矛盾や不合理が生じてくる。
 人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない。それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
 私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。

というもので、これが「トンデモナイコト」なのだそうだ。ネット上では坂東眞砂子は異常者扱いされている。
正直なところ、私にはこの文章のどこが「トンデモナイコト」なのか、よくわからない。これは私も性格異常者だからか? それとも環境から影響を受けたからか? 私が暮らすド田舎では、いまだこの「トンデモナイコト」がスタンダードである。
 
住環境からの影響ということでは、坂東眞砂子さんは次のように書いている。

ドライブの楽しみは、鶏の死骸を発見することだ。私の住むタヒチ島では、野生の鶏がたくさんいて、よく車に撥ねられて死んでいる。それを拾って、新鮮ならば食用に、傷んでいれば犬の餌にするのだ。
 数日前も運転していて、路上に茶色の塊を見つけた。しめた、とばかりにスピードを落として目を凝らすと、猫の死骸だった。残念、と思いつつ、また車の速力を上げてから、ふと気がついた。
 私は猫好きである。以前ならば猫の死骸を見たりしたら、胸を痛め、その死を悼んだものだった。それがタヒチで八年も暮すうちに、ああ、また猫が死んでる、かわいそうに、程度のものに薄れてしまった。
 見慣れたのだ。島には、野生の鶏ばかりではなく、野良犬、野良猫、野鼠などがうようよいて、車に礫かれた死骸が路傍に残されている。ぺしゃんこになった猫や、四肢を宙に突きだして死後硬直した犬、鼠などは灰色の湊みのように地面にくっついている。鼠に関しては、飼っている犬猫が殺した死骸が家の中や庭に転がっていると、尻尾をつかんで茂みに放り投げるほどに平気になった。
 考えてみれば、子供の頃、私の育った高知の山間の村では、犬猫、蛇の死骸などが路傍に転がっていた。なのに、都市生活を十数年続けたおかげで、いつか獣の死骸に違和感を覚えるようになっていたのだった。

きっこのブログからの孫引きだけど、まったく正常ではないか。「きっこのブログ」ではこれも性格異常者の証として提示されているけど。
この文章の正常さが理解できない人は、田舎で暮らしてみればいい。タヒチに行かなくても、日本でも過疎地に行けば十分、こういった感覚は堪能できる。
以前に「ウサギの交通事故」というタイトルで記事を書いたことがある。私が暮らしている環境では、このようなことは日常茶飯事だ。これらの野生動物は、私たちにしてみれば「食料」なのである。シカなんかよく見かけるが、そのとき思うのは「美味そう」である。実際、野生のシカの肉は美味いよ。スーパーで売っている牛肉なんか、比ではない。特にまだ温かい肝の刺身や脳ミソなんか、絶品。一度その味を憶えたら、「美味そう」になる。
 

 坂東さんは日経を通じて「タヒチ島に住んで8年。人も動物も含めた意味で『生』、ひいては『死』を深く考えるようになった。『子猫殺し』はその線上にある。動物にとって生きるとはなにか、という姿勢から、私の考えを表明した。人間の生、豊穣性にも通じることであり、生きる意味が不明になりつつある現代社会にとって、大きな問題だと考えているからだ」とコメントしている。

ZAKZAKからの引用だが、このコメントは私には十分納得できるものだ。
「こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている〜」とこの作家の期待通りに事が運んだわけであるが、このような記事にエキセントリックに反応してしまう世論の方が、私には「トンデモナイコト」のように思える。飛躍するが、こんなことだから世の中オカシクなってしまっているのだろう。そんなふうにすら、思う。
 
 
ここまで坂東眞砂子さんの意見を支持しておいて何だが、やはりこの御仁には少しは「異常性」はあるのかも、と思わなくはない。
それはまずは、このようなエッセーを公表したこと(コメントに納得したのとは矛盾するようだが、敢えて発表したということで)、それから、どことなしに「死を楽しんでいる」風情が感じられること。故に、タイトルで「〜とは言い切れないが」とボヤカシタのだが...。
他のブログでの批判記事等を読んでいると、坂東眞砂子さんは「日常的に」子猫殺し・子犬殺しをしているが如く書かれている。飼い犬・飼い猫に避妊を施さず、彼らの本能の赴くままにさせているのであれば、飼っている数からして、「日常的」になってしまうだろう。彼女の主張は主張としても、やはり常人には「殺し」は避けたいものだ。「それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのこと」とは、少しカッコ良過ぎる。字数が限られた紙面でという事情もあったのかもしれないが。
 
ここで私も告白しておくが、私もつい最近「子犬殺し」をした。半年ほど前のことだ。
我が家は2匹の犬を飼っていて、それが両方とも♀なのである。そしてお隣にオス犬がいる。3匹とも避妊は施していない。結果は...、「為せば生る」。
お隣のオスは都合3度、「為し」ている。一度目の成果は3頭なり。2匹は里親に引き取られ、1匹が残った。現在我が家にいる2匹の内の1匹である。2度目は1頭。これも引き取られていった。3度目は油断していた。事に及んだのは知っていたが、「生る」とは思っていなかった。親子(!)だし、まだ生後1年にも満たないし...、認識が甘かった。ヤツラはヒトのような異常性欲の持ち主ではない。為すときには必然性があるのだ。そして、その必然性は実った...。
その2匹はスタンダードな処理方法をとった。いや、最初は獣医に連れて行って、堕胎とついでに避妊を施そうと思っていた。獣医に予約を入れ、これから連れて行くという日の朝、犬小屋に行ったら生まれていた。2匹だった。オスかメスかも知らない。知ったら「処理」できなくなるから。私は彼らをダンボールに入れて、川へ捨てた。
 
この処理方法を取ったことを、今では後悔している。わが地元ではこの方法は未だにスタンダードであるので誰からも非難を受けることはなかったが、やはりもう一つのスタンダード、つまり里親探しをしてやればよかったと。もうあんな思いをするのはイヤだ。
 
だが、里親探しといっても、今後は難しいかもしれない。一度目は知り合いに引き取ってもらった。二度目はNPOに頼んで里親を紹介して貰ったのだけど、条件が「その後避妊手術をすること」であった。妻がそこを探して来て頼んだのだが、実は、大変申し訳ないけれど、その約束を未だ履行していない。NPOの方、本当にゴメンなさい。
けれど、いざとなったら連れていけないのだ。どうしても避妊などという「残虐な所業」ができない。私は子犬殺しよりも、避妊の方が残虐だと思っている。ついでだから、これも非難を覚悟で告白しておく。
全く勝手な理由だ。それは子犬は「水に流れて」しまって目の前からいなくなるのに対して、避妊は、それを施した相手と引き続き付き合わねばならないからである。
 
わが飼い犬を獣医に連れて行って、避妊手術を受けさせるとする。その彼女にどう声を掛ければいいのか? 「いい子だね、ヨシヨシ」ってか? 都会では避妊手術がスタンダードだそうだが、都会の飼い主たちはどのようにしているのか? 私には想像がつかない。
どのような言葉を掛けようが、欺瞞である。人間は、犬・猫を自分の身勝手でカタワにしたのだ。それを都合よく忘れて、その相手を可愛がれというのか? そんなことができるのか? 欺瞞の上に欺瞞を重ねる行為だ。
この頃の都会では、ペットも人間様並みだそうである。エサも奢るし、美容院だのホテルだの、死ねば人並みの墓場まであるという。だが、そうやって人間並みの待遇を受けている愛玩動物たちは、去勢済みであることだろう。何が人間様並みだ、笑ってしまう。
 
きっこのブログ」の主を始め、坂東眞砂子さんを性格異常者扱いである。確かに「いかにもホラー作家」と思わせるところがなくはないが、それでも私に言わせれば大したことはない。それよりも、自らが愛する存在を自分の都合で「改造」しておいて、それをキレイサッパリ忘れてまだ愛することが出来る。それどころか、そのほうがペットたちにとっても幸せだと考える...。どこか壊れているんじゃないのか? 
 
恐らく都会のペット飼育者は、ペットを自らの「所有物」と考えているのだろう。だから得手勝手な改造ができる。
ペットはモノではない。生命である。人間の思いのままにならないものだ。だから彼らとは「対決」しなければならないのだ。「対決」とは時と場合によっては「殺してもよい」ということである。
 
都会という空間は、人間の意識によって作り上げらた空間である。だから人間は無条件で最上位にある。故に愛玩動物は所有物となり、「飼い主の責任」という発想が生まれてくる。
自然環境が豊かに残る場所では、人間は無条件に最上位の存在ではない。「対決」の結果、暫定的に最上位あるだけのことで、その「対決」が未だ継続中だ。
農作物が野生動物に荒らされる。生い茂る草木との格闘。そしてそれは飼い犬・飼い猫とて例外ではない。
発情期の彼らのエネルギーの凄まじいこと。正直にいうが、2度目以降の「為す」はその「対決」に負けての結果なのである。お隣の飼い主がお年寄りということもあったのだが、彼らの溢れる情熱を押さえ切れなかった。そしてそのときの「対決」は彼らの勝ちだったのだが、私たち人間側はその結果を受け入れることが出来ず(これが「社会的責任」というものである!)、再度「対決」し、それの結果の一つがスタンダードな処理となったいう次第なのである。
 
「子猫殺し」「子犬殺し」がいまだ田舎ではスタンダードであるのは、「対決」が日常茶飯事だからである。人間の都合で犬・猫を殺すなんてことは、罪悪ではない。だが避妊は違う。これは逆に卑怯な方法と看做される。これを行えば圧倒的な力の差によって「対決」は一度で済んでしまうが。
 
なるほど、人間は確かに「技術」でもって自然環境を克服してきた。避妊手術もその技術の一つだ。だが、その技術という「人工」が行き過ぎで人間自身が本来持っている「自然」がおかしくなっているのではないのか? 坂東眞砂子さんはそれを問題提起したかったのではないのか?「生きる意味が不明になりつつある現代社会にとって、大きな問題」とは、そういうことであろう。
 
ここまで主張した上で、坂東眞砂子さんの行いにもうひとつ非難を表明したい。
つまり「対決」が不十分だ、ということ。「生きる意味」を問いかけるなら「対決」しなければだめだ。飼い猫・飼い犬たちの自然な欲求と「対決」することなく非力な子だけを処理するのはやはり卑怯だと思う。
 
 
もうひとつ言い訳するのを忘れていた。3度目のとき一度は「避妊」を考えたことについて。
私はもとより避妊には反対だが、妻は必ずしもそうではない。避妊を主張した妻の言葉の中に「犬ばっかりコロコロ子どもが出来てって、近所から言われる」というのがあって、それに抗し切れなかった...。私たち夫婦には子供がいない。望んでそうしているわけではないのだが。
あ、こんなことを近所の人は嫌味でいうというわけではない。ただ、それが男女が家庭を営んでいたら、スタンダードだというだけ。

「お玉おばさんでもわかる政治のお話」と掛けて「華氏451度」と解く

その心は「自分の言葉」
 
今日は別のことを華氏451度さんからきっかけをもらって別のことを書こうと思ってたのだけど、予定を急遽変更。
「お玉おばさんでもわかる政治のお話」の「お玉な話」を覗いて、何かコメントを書こうかな〜なんて思いながら、言葉が思い浮かばなくて、それから予定していたエントリーを書こうと思って、先日コメントさせてもらった華氏さん記事をもう一度読み直そうと思って覗きに行ったら、「どれほど低レベルでも、私は自分の頭で考え、自分の言葉で語りたい」が新たにエントリーされていて、そこを読んでまたコメントさせてもらったのだけど、それでは飽き足らなくなって、この記事を書き始めた次第。
 
で、何が書きたくなったかというと、「自分の言葉」。いや、いつだって自分の言葉を書いているつもりではいるのだけど...。
 
「お玉な話」を読んで思い起こしたのは、わが町の「九条の会」の最初の会合のこと。
ド田舎のわが町に「九条の会」が立ち上がったのは、とあるおバカが「やりたいっ!」って言い出して、それに私を含めた数人のバカが乗っかったことから始まったのだけど、とりあえずは憲法9条に絡む諸問題の勉強会あたりから始めよう、というの呼びかけ人の考えだった。でも、それじゃつまらん、といってひっくり返してしまった。犯人は私。「九条の会」なんてものがあるというのは、恥ずかしながらそのとき初めて知ったのだけれど、そこに名前を連ねている錚々たる顔ぶれを見て、私はヒネクレ者だから、これはイカン、と思った。こんなエライ人たちの言葉を勉強して、判ったつもりになって、それで9条だの平和だの、なんて他人に語ったって、絶対共感してもらえない。そんなのは所詮、他人事。それにまず、わが町のような超高齢化&過疎のド田舎では、梅原猛だの、加藤周一だのといったって、知らないって。
自分の言葉を生み出すための他人の言葉を学ぶのであれば、それはそれでよい。けれど、平和の大切さについて学ぶのであれば、何も遠くのエライ人の言葉を勉強しなくったって、近くにいる戦争体験者に話を聞けばいいではないか。エライ人の言葉を学ぶことが無意味だとは思わないけど、平和の大切さを「実感」したいなら、実際に戦争を体験して、骨身に染みて平和な世の中のありがたさを実感している人の話を直接聞いた方がよかろう。それだったら過疎のわが町にだって、人材はたくさんいるではないか。スタートするならそこから始めなければ...、 そんなことを言ったと思う。
 
「doll and peace」のぷらさんが、「コーソツ主婦の靖国問題(1)」の記事の冒頭に

この文章を書くにあたり、まず無学な一主婦が、何故こんな問題に首を突っ込んで頭を悩ませなければならないかを考えて、苦笑してしまった。ホントなら、晴れた日の休日、コドモと一緒に弁当でも持ってお出かけしたり、ショッピングを楽しんだりした方が、よほど健康的で家族も喜ぶはずなのだ。私は一体何をやっているのか?

なんてことを書いておられる。「一体何をやっているのか? 」と自問しながら、それでもやらずにはおれないのは何か理由があるはずなのだが、一番大切なのは、その「理由」なんだと思う。私はそれによく「出発点」という言葉を当てはめたりするのだけど。
「自分の言葉」にはその「理由」「出発点」が滲み出る。なぜ、平和が大切なのか? 戦争がいけないのか? 自分の中に理屈ではない「理由」があるなら、それは自ずから「自分の言葉」になるはずだ。言葉の使い方はたとえ他人のモノを借用したにしても。
 
九条の会」を始めた当初、私の9条に対する意見は、「現時点での改正はマズイ」というものだった。「現時点」ではということは「いずれは改正すべき」であるという考えが根っこにあって、今改正したってアメリカを利するだけだからマズイ、だから「現時点では反対」というのが立脚点だった。けれど、その考えは変わっていった。それは、戦争はダメという理由をしっかりと持っている人の「自分の言葉」に接したからだと思う。それ以前の「現時点での改正はマズイ」という考えは、「日本国憲法アメリカから押付けられたものだから改正すべき」という考えと同程度の、自分の中に確固とした理由のないアタマデッカチの考えであったと今では思っている。
 
華氏さんの「どれほど低レベルでも、私は自分の頭で考え、自分の言葉で語りたい」のエントリーは次の言葉で締めくくられている。
「人間を動かすのは、同じ人間の肉声だけである」
「自分の言葉」で何かを書こうとするとき、それは何も人間を動かそうと意図して書くものではない。いやいや、何時もそう意図していないとは言い切れないけど、そんな意図が働いてしまうときは、「自分の言葉」といえども、どこかしら不自然になってしまう。他人から共感を得ることが出来るのは「素直な」「自分の言葉」なのだろう(これが小泉人気の原因だったりして)。
 
ちょっと言い訳。
「自分の言葉」で書いておられるのは、書いておられると私が思うのは、お玉さんと華氏さんだけというわけではありません。念のため。
私が愛読させてもらっているブログは皆々、「自分の言葉」で書き綴られていると思ってます。お玉さんと華氏さんを挙げたのは、たまたまです(なんだか余計に言い訳ぽくなったような...)。
 
それから、UTSにひとつ提案。
このような“謎掛け”、UTSでやってみてはどうでしょう? プロジェクト参加ブロガーの誰かと誰かの記事から共通のキーワードを探してきて、それで自分が記事を書く、といったような。

靖国参拝・それぞれの「心の問題」

8月15日の敗戦記念日から、はや一週間。もはや周囲遅れという気がしないではないが...。
周回遅れになってしまった言い訳というわけではないのだが、ここ2週間ほど、妻の実家へ帰省していたのやら何やらで、PCはお留守になっていた。妻の実家は山梨・富士吉田にあって、ここがまた夏を過ごすには実に快適なところで夏の帰郷は妻のみならず私も楽しみにしているのだけれど、かの地が快適な分、紀州に帰って来てからが辛かったりする。9日に出かけて帰って来るのは16日に帰って来ていたのだけど、紀州の湿気の多い暑さに参ってしまって、今日までブログに何かを書こうという意欲が全く湧かなかった。我が家にもエアコンなどという上等なものが備え付けられてたのなら違ったかもしれないが、そのようなものを備えるつもりも金もない。暑いときは暑いなりに、何とかやり過ごすしかない。
19日まで台風の影響でこちらは雨で、本日20日にやっと夏期休暇(といったって、会社勤めのようにいつからいつまでと厳密に決まっているわけではない)明けの初出勤となったわけだが、身体を動かして積極的に暑さに対処した分、やっと書いてみようという気分になった次第。
 
敗戦の日小泉首相靖国神社参拝のニュースは、当然のことながら、妻の実家で接した。朝からそのニュースばかりで皆、閉口した様子であった。私にとっては少なからず関心のある問題であるので、いろいろな報道や情報に当たってみたかったし、またこの問題を話題にしたいところでもあったが、それをすると「和」を乱すことになるのは目に見えていたので、やめた。妻が制止の目線を送っていたことでもあるし。
しかし、おそらくはこれが平均的な日本人の姿ではなかろうかと思う。妻の両親だって生まれは戦前で、従軍の経験はないとはいえ戦中戦後の貧窮した暮らしを体験してはいるのだろうけど、彼らにとっては靖国など「心の問題」ではないのだろう。というかむしろ、「心の問題」にしたくないという意識が働いているような気配が感じられた。
 
靖国神社という施設は、戦前戦中は戦争に従軍する兵士を作り出すための装置としての役割りを果した。創設の当初から兵隊生産装置として意図されたものかどうかはわからないけれど、欧米列強と日本が張り合っていく歴史の中で、そういった役割りを果たしていくことになったことには間違いない。その役割りのためだけの装置だと断定するのはどうかと思うが、その役割りを担っていたことは否定できない。
ところが日本が第二次大戦で敗北し、靖国の兵士生産装置としての役割りは消滅した。その役割りの消滅と同時に靖国も消滅させるという選択肢も日本を占領したGHQにはあったのだろうが、GHQはその選択をしなかった。これはおそらく昭和天皇を断罪しなかったのと同様の理由であったろう。そして戦争を放棄した日本において靖国神社の果してきた役割りとは、戦争当事者や遺族たちの「心の問題」の受け皿だったのではなかろうか
戦争当事者や遺族たちの「心の問題」といったって、それが皆々が一様なものであるはずはない。敗戦後、日本人の大部分はそれまでの軍国主義から平和主義へコロッと宗旨替えをしてしまったけれども、それでも全ての日本人が宗旨替えをしてしまったというわけではなく、中にはそういった宗旨替えを出来なかった人だっている。そういった人たちの「心の問題」を受け止めてきたのが靖国神社ではなかったろうか。それに実際のところ、いわゆる靖国史観が全くの間違いだとは言い切れない。あの戦争がアメリカの謀略であったという側面は、これはこれで間違いなくあり、そこからすると東京裁判戦勝国が自らの犯罪行為を棚上げするためのセレモニーにしか過ぎないとする見方だって十分に成立しうる。そして、この見地からすると、かつての戦争を肯定しA級戦犯を合祀した靖国神社の行いも、これはこれで一つのスジが通った見方といえなくはない。
だが、戦後の日本は「戦勝国の論理」による歴史観を受け入れることで独立国として再出発した。この歴史観はもちろん靖国史観とは真っ向から対立するものだが、だからといって、靖国史観を抱く個人の歴史観までも否定するものではない。人それぞれの歴史観とはつまり人それぞれの価値観であるわけだから、国家の公式見解がどうであれ、個人の「心の問題」を否定できるものではない。戦後の靖国神社は、国家の公式見解とは異なる歴史観・価値観を持つ人たちの「心の問題」の受け皿になることによって、反ってそういった価値観を持つ人たちを慰撫する役割り、つまりガス抜きの役割りを果たしていたのではないだろうか。
また、平和主義に転向した人々にとっても靖国は一定の役割りを果してきた。これは小泉首相が言う通り(本心からかどうかは知らんが)「心ならずも心ならずも戦争で命を落とさざるを得なかった方々へ哀悼の誠をささげ」「二度と戦争を起こしてはいけないという決意を新たにする」という、こちらはこちらで「心の問題」の受け皿となる役割をである。
いずれの立場であるにせよ、敗戦後60年以上の年月が経過して戦争を体験した人たちも次第に亡くなっていき、靖国の果すべき役割りも徐々に小さくなってゆき、やがては自然消滅していくはずであった。日本が敗戦時に誓った平和への決意を持続させていくならば...。
 
靖国に絡んでの「心の問題」ということであるならば、先に明らかになった昭和天皇の「心の問題」について触れないわけにはいかない。発表されたメモが本当に昭和天皇の「心」を表現したものなのかどうか、議論はさまざまあるのだけれど、勝手な推測を言わせてもらうと、あのメモの内容は昭和天皇の本心なのだろうと思っている。
憶測だけれども、昭和天皇は戦争責任を感じていたのだと思う。外形的な事実としては昭和天皇は戦争責任を追及されることを免れたけれども、昭和天皇の「心の問題」としては戦争責任を感じていたはず。そういった「心」があるからこそ昭和天皇は、共に戦争責任を負うべきA級戦犯たちが合祀された靖国神社に参拝することをしなかったのであろう。昭和天皇A級戦犯を合祀した靖国に参拝することをしてしまうと、それは自らの「心の問題」として負っている戦争責任を否定してしまうことになるからである。
この昭和天皇の「心」とは、職業倫理であると思う。天皇という身分をからいえば「ノブリス・ オブリージュ」と表現した方がよいか。私自身は人間そのものに貴賤があるという考えに組しないので、あくまで天皇も一つの「職業」と考えて職業倫理としたいが、いずれの呼び方をするにせよ、昭和天皇は高い倫理観をもった人であったと思う。同意できない人が少なからずいるかもしれないが...。
昭和天皇が高い倫理観を持っていたということに同意できない人であっても、この人との比較であれば、十分高い倫理観をもっていると同意できるのではあるまいか。この人とは、同じ靖国参拝を「心の問題」としている人、現在、日本という国において、実質上最高の職業=内閣総理大臣に就いているおられる小泉純一郎氏である。この人にとっての「心の問題」とは、職業倫理でないことは明らかだ。この人の職業倫理は...、言及するのもバカバカしい...。

資本家=経営者が必要でない時代がくるか

本日も持たざる者のルサンチマン丸出しでいってみますか。
 
劇場管理人のコメント:年収300万の人より、年収1200万の人の方がよっぽど収奪されている時代
またもや劇場管理人さんから引用させています。

ただ、プログラマーの生産性というのはほんと残酷なほど差がでる上、人月の法則がクソの役にも立たないので、仮に1200万あったら、1200万 >>>> 600万 * 2 >>>> 300万 * 4というのが実感です。

こちらはもともとは404 Blog Not Found :プログラマー募集中にあったもの。それを「年収300万の人より、年収1200万の人の方がよっぽど収奪されている時代」で引用されている。
プログラマーのように創造性が必要な仕事では、こういったことはあるでしょうね。

もっと分かりやすく言えば、本来なら、年収1200万の人間というのは、年収1800万を支払っても、まだお買い得なぐらいの働きをしてくれるのに対し、年収300万の人間は、年収300万でも割高なくらいなのである。

たとえば、年収1200万の人間は、本来なら1800万円もらえるところを、ピンハネされているイメージだ。いや、純粋に経営合理的に考えれば、3000万払っても惜しくないという人の年収が1200万になっていることなど、珍しくもない。

単に、1200万円の人材が、探しても、探しても、探しても、見つからず、あるいは、見つけられても、自社に来てもらえないから、仕方なくそこらへんにいくらでもいる300万円の人間を代用に使っているだけなのである。

ゆえに、高額所得者の方がよほど搾取されているという論法。では、搾取しているのは誰なのか?
 
創造性から富が生まれる。創造性は高額所得者であろうがなかろうが、労働者のものだ。これを資本家=経営者は搾取する。

実際、経営の現場において、金をもらう側ではなく、身銭を切って金を払う側になったことのない人間には、このことの切実さは、分からないのかもしれない。

労働者の生産性がそのまま経営者に帰属するものだと、なぜ何の疑問もなく考えることが出来るのだろうか。
確かに生産=富の創造には資源が必要だ。資源を集めるのに資本が必要? 
必要不可欠というわけでもあるまい。単にあれば便利というだけだろう。物々交換よりも貨幣を介した交換の方が便利であるのと同様に。 

なんで、時代とともに、この傾向が顕著になってきたかというと、古くはオフィスオートメーション、最近ではITシステム化が進んで、単純作業が、機械やシステムに置き換えられるようになったからだ。

単純作業は、誰がやっても、それほど生産性はそれほど変わらないから、仕事における、単純作業の割合が高かった時代は、それほど生産性に違いはなかった。
・・・
単純作業が徹底排除された後に残る作業というのは、生産性に大きな違いの出てしまう部分なのだ。

資本が生産性を向上させるのは、単純作業を機械設備でもって効率的に行う場合である。創造性を発揮するのに資本は何の関係もない。いや、PCだって資本とみれば関係なくはないか。けれど、単純作業の生産性向上ほどには深く関与しない。
PC程度のモノなら莫大な資本がなければ用意できないものではない。ネット環境を築くには莫大な資本が必要だが、これはもはや道路や鉄道や空港などと同様の社会インフラだ、つまり共有の資本である。
共有の資本と極小の私的資本で生産を行う。もはやほとんど共産主義ではないか。
 
価値を創造する労働者は、資本家がいなければ彼が本来受け取るべき価値を搾取されずに済む。
で、資本とはつまるところ情報でしかない。IT技術の進展は情報処理能力を飛躍的に発展させた。情報処理の自由度が昔とは比べ物にならないくらい高くなった。もはや資本という情報を資本家に集中させなければ上手く運用できないわけでもあるまい。
 
技術の進展で単純労働者の価値が減少した。それを認めろと資本家=経営者はいう。では、時代と技術の進展で資本家=経営者が必要なくなったのなら、彼らは素直に退場するだろうか?